3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第21次元  無の境地――オモシロが消えていく。

第10次元都心に遊びに行きたいと思うことが少なくなったというようなことを申し上げました。2020年の末、「風の時代」が幕を開ける頃のことであります。そこから「財産大換金祭」や故郷への転居 第11次元参照を経て1年と少しが過ぎたところでありますが、その間、かつて我が庭としていた秋葉原や上野アメ横エリアを始め、都心の繁華街には一度も足を踏み入れることなく暮らしております。

無論、地理的に遠くなった、という単純な理由もありましょう。が、それとて何百円か払って小一時間電車に乗れば済む話で、本当の理由はやはり「別に行きたいと思わなくなった」というところにあります。用事があってちょっと大きめの賑やかな街に出ることはたまにありますが、用事済ますともうね、すぐ帰っちゃう。以前ならこれ幸いと、最低でも用事の倍は遊んで帰ったものでしたが、今はまったくと言っていいほどそんな気は起きません。恒例のストロングスタイルな修行の旅はおろか、日帰りでちょっと遠出したいという気すらも湧かない。

 

この1年半ほどの間に「別にやりたいと思わなくなった」 ことはこれに限りません。何かを創作したいとか、音楽を聴きたい、楽器を触りたいとかもあまり思わなくなったし、以前は毎週楽しみにしていたテレビ番組なんかも、今や録画が溜まるばかり。つまるところ「都心に遊びに行きたいと思わなくなった」を皮切りに、私にとって「面白いと思えるもの」が加速度的に減っているのであります。

 

日々を楽しく豊かに過ごせなければスピリチュアルも何もないわけで、そういう意味ではこれは由々しき事態であります。都心への興味が薄れた時に、師匠から「それも進化の過程の一つ、恐るるべからず」と言われてはいたものの、それ以前に実際問題として毎日が面白くないんだから、何とかしようと思うのが人情というもの。何か面白きものを求めて、あれこれ手を出すわけです。

 

まずは手っ取り早く「子供の頃に好きだったこと」をやってみましょう、ってことで、プラモデルを作ります。ちょうど一つ、何年か前に買ったまま放置していた「マスターグレード1/100ターンAガンダム」のキットが手元にありましたので、こいつを組み立てていきます。

それにしても今のガンプラってのはすごいすね。普通に組み立てるだけで色塗ったみたいに仕上がるし、関節の可動域に至ってはもはやヨガマスター級。40年近く前の「白一色姿勢維持力ゼロガンダム」をリアルタイムで知ってる我々世代には信じ難い進化でありますが、何だろう、ここまで完成度が高いと、逆にその先が見えない。モデラ―魂に火が点かない。頑張って色塗ろうとか、造形の甘い所を作り直そうとか、昔のキットみたいな「組み立ててからがスタート」というあのときめきは、あまり感じない。楽しくないわけではないけど、じゃあもう一個とか、頑張って昔のキットを手に入れてこようとかは、今のところ思わない。というわけでプラモデル作りは一旦保留。

 

プラモが駄目とくれば次はゲームだ、といきたいところですが、これに関しては実は既に、たぶん師匠んとこ通い始める前に「ミニファミコン」にて実証済みでありました。

この「ミニファミコン」なるもの、手のひらサイズの本体に、草創期の『ドンキーコング』から最盛期の『ファイナルファンタジーⅢ』まで、錚々たるタイトルが30本も内蔵されて約6千円。ファミコン発売の年に小学校に上がったファミコンゴールデンエイジの我々にとってはまさに夢のマシン、のはずでしたが。

うーん、何だろうねえ、今ひとつ燃えない。あの頃のような闘魂が湧いてこない。当時結構やり込んだ作品を片っ端からプレイしても、やはりあの頃のときめきは残念ながら、ない。『ファイナルファンタジー』シリーズについては別格で、特にスーパーファミコン時代の「Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ」は私の人生に多大なる影響を与えた作品群でありますが、常時プレイするゲームではないかな、というのが正直なところ。というわけでゲームも保留。

 

そうこうしてるうちに、まさかまさかの里帰り。ガンプラファミコンに塗れて過ごした街で再び暮らすことになったわけでございます。となればもうね、四の五の言わずに黙って歩け、ということで故郷の街をひたすら歩いて巡りますが。

 

当然といえば当然だけど、30年以上も時を経ればもうね、原形ないすよ。いやまあ、原形ないは言い過ぎとしても、例えばそれこそガンプラファミコンカセットを求めて足繁く通った模型店おもちゃ屋さんはすべて姿を消し、かつて暮らしたアパートはきれいに建て替えられ、夏になればカブトムシやクワガタを獲りに行った森はもはや影もない。4年生いっぱいまで通った小学校は固く門を閉ざし、幼き日を懐かしむおじさんのアクセスを断固拒否する、そんな時代になってしまいました。

で、結果として故郷の街を隈なく歩いて回っても「懐かしくなくはない」くらいの感じで終わり、単純に散歩としてはそれなりに楽しいけど、本来自分が持っていたはずの根源的な楽しみの再発見には、今のところ至っておりません。というわけでこれも保留!

 

ええ、詰みましたよ。

今楽しいものがなくなり、かつて楽しかったものも今やさにあらず。がらん堂の心に吹き込むすきま風がやけに沁みる今日この頃でありますが、ただもしこれが本当に師匠の言う「進化の過程の一つ」であるならば、なぜこうなったのかを考える意味は大いにありそうな気がします。

いつもならここでおなじみハイヤーセルフ閣下にお出ましいただくところでありますが、今回はね、なんかこれ書いてるうちに一つキーワードが浮かんだというか、もしかしたら閣下が何も言わずにそっと置いてってくれたのかもしれない。サンキューでーす閣下

で、そのキーワードがこれ。

 

「コミュニケーションツール」

 

思い返せばファミコン草創期、家で一人でゲームやってる奴なんかいなかったよね。放課後は誰かんちにみんなでカセット持ち寄って集まるのがお決まりでした。ゲームそのものも、対戦、協力、交代制と形はさまざまあれど、基本的に二人で遊ぶ前提で作られたものがほとんど。なのでファミコンの周りには常に、コントローラーを握ってる奴2名とガヤ数名がいて、やいのやいの言い合って白熱して、それはそれは賑やかなものでした。初代『マリオブラザーズ』が実は仁義なき対戦型ゲームであることが判明したのも、基本二人でプレイするものであればこそでございましょう。

 

プラモデルにしても、誰かと一緒に作ることこそそんなになかったものの、やはり上手に作って、誰かに見せたい、友達に自慢したいという思いは当然の如くありました。ここを改造したとか、この色は何と何を混ぜて出したとか、お互いに情報交換しつつ腕を磨き合ったものです。私が小学校高学年の頃には「ミニ四駆」が流行りましたが、あれも一人でやるもんじゃないよね、やっぱ。

 

いずれにしろ、ファミコンもプラモデルも私にとって実はコミュニケーションツール、すなわち誰かと体験を共有する手段だったということが、今になってわかったのであります。『ファイナルファンタジー』シリーズのような、いわば物語をじっくり味わうゲームならまだしも、『悪魔城ドラキュラ』みたいな激ムズアクションゲームを一人黙々とプレイするのははっきり言ってただの苦行。しょっぱい死に方しても誰も笑ってくんないし、全クリしたところで歓声一つ湧かないんじゃあ、面白くないのも当たり前です。

 

プラモデルなら今の時代SNSで出来栄えを披露できたりするんだろうけど、何かねえ、違うんだよね。結局画像見せるだけだし。それが私の望むコミュニケーションの形であるとは、今のところ思えません。

 

地上にあった光の玉が見る見る上昇し、瞬く間に雲すら遥か遠くに見下ろす上空へ。茫漠たる青い空間からの眺めは実に爽快。しかしそこはあまりに静かで、誰もいないし、誰も来ない。

 

ちょっと前に師匠んとこで瞑想した時に見たビジョン。師匠はやはり「進化の過程で感じる孤独の象徴」であると言います。

まあ冷静に考えてみれば、これまである意味慣れ親しんできた3次元の物質主義世界を離れて5次元世界への移行を試みているのだから、当たり前といえば当たり前。過去の楽しみから未来の楽しみの種を探るというのは、今の私にとっては得策ではないようでございます。

 

そして今回新たに生じた「コミュニケーションツールとして機能しないものは、本当の意味で楽しめてはいなかったのでは?」という疑問。

3次元物質主義の世界とその住人たちから一定の距離を保ってきたこの30年近くの間、もっぱら自己完結型の一人遊びに明け暮れていたわけですが、それが本当に、心底、楽しかったのかい? と問われると、確かに、何とも……。

 

この辺りはね、突き詰めるともうひとネタ分いけそうな気がするので今回はここまで! 引っ張れるもんはとことん引っ張り、出し惜しみなんかもね、いくらでもしてまいりますよぉ。

すべてはネタ切れ防止のため! じゃ、またね。

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第20次元  当たるも当たらぬも――吾(われ)未だ宇宙の覇王たり得ず。

書店などで「占い・スピリチュアル」と銘打ったコーナーをよく見かけます。世間的にも書店的にもこれらは「まあだいたい同じもの」という扱いなのでございましょう。実際、3次元的な物質世界を超えたレベル、小難しい言い方をすれば形而上けいじじょう的に自分なりこの世なりを理解するためのツールという意味では、似たものと言えなくもない。自分や世界の見方を深め、人生を豊かにするツールがたくさんあるのはよいことであります。

 

かく言う私も占い屋さんに行ったことがあります。初めて行ったのはおそらく20年ほど前、一度ちゃんと手相を鑑てもらいたいと思っておりまして、ある時思い立って札幌のとある占い屋さんを訪ねました。

と言いますのも、私の手というのがこれがもう線だらけでして、薄い細かいのも入れたら、テレビとかで言ってる「強運の線」みたいなのが全部ある、ように見えなくもない。ならばそろそろ、この宇宙は我が掌中に収まらなければおかしいのではないか。

とか思わなくもなかったけど、実際は単純に「占い」という観点から私という人間はどう分析されるのか、それを知りたかっただけでした。あとはまあ、強いて言うなら、私のこのくっちゃくちゃの手相を、果たして「プロの占い師」は本当に読み取ることができるのか、もしかしたら匙投げて降参するんじゃないか、とか少々いぢわるな期待をしてたりしてなかったり。

ただ、私が人生で初めて相見あいまみえた占い師さんはお世辞抜きで素晴らしい方でしたし、自分で言うのもなんですが、当時の私の「占われ方」もきっと正しかったと、20年の時を経て、スピリチュアリズムを学ぶ身となった今も思うのであります。

 

じゃあその「正しい占われ方」とは一体何なんだい?

当然それは私が正しいと考える形の一つに過ぎないのですが、決して間違ってはいないという確信がありますので言っちゃいます。それは。

 

何とかしてもらおうとしないこと。

 

先に申し上げたとおり、私が占い師を訪ねた目的は「占いという観点から私という人間はどう分析されるのか」を知ること。悩みを解決するための答えを求めたわけでも、「俺はこれからどうしたらいいんすか」と泣きついたわけでもありません。

占いは形而上的なツールの一つ。当たる当たらないをエンタメ的に楽しんで終わり、というのが悪いとは言わないけど、それに一喜一憂するよりは、その結果から自分自身の特性や傾向を客観的に吟味し、活かせるものは活かす。そういう楽しみ方のほうがより深く、意義深いものになりましょう。自分の過去のことなんか別に当ててくんなくたって自分で知ってるし。

そういう意識を20年前に既に持っていたことは、我ながら褒めてやってもよかろう。さすがは生粋の修行僧。

 

対照的に、と言っていいのかわかんないけど、巷には「占いジプシー」と呼ばれる人々がいるそうです。評判の占い師を何人も訪ねて回っては、結局満足できずにまた今日も、みたいな。

なぜそうなるか。答えは簡単。

 

何とかしてもらおうとしてるから。

 

プロの、ましてや高名な占い師ならその場ですぐに「正解」をくれるはず。言われたとおりにすれば幸せになれるに違いない。

なるほど、いわゆる「当たる占い師さん」ならそういうこともあり得ましょう。

じゃあ例えばその占い師さんがくれた「正解」というのが、

「今日の占いの結果をもとに、これまでの自分の人生を省みて、今の自分の意識としっかり向き合って、これからどう生きるか、じっくり考えてみてくださいね」

といったものだったら、どうしますか?

言われたとおりにするならそれは正しい占われ方、あるいは形而上的ツールの正しい使い方の一つと言えましょう。即日幸せになれるとは言わずとも、少なくとも幸せに一歩近づくことは間違いない。

で、それをしない人、せっかくくれた正解を正しく受け取れず、意識がどうとかめんどいとか言っちゃう人が「赤い服を着れば運気が上がる」とか「この男は出世しないから付き合っちゃだめ」といったインスタントな正解、なんなら自分にとって耳触りのよいだけの言葉を求めて荒野を彷徨うことになるのでありましょう。

そうして彷徨ってるうちはまだいいし、彷徨った末に「自分をどうにかできるのは自分だけ」ということに気づければなおよし。

よろしくないのが、タイムリーにビシッとはまる、インスタントで耳触りのよいだけの正解をバシッとくれちゃう占い師に出会ってしまうこと。

これが危ない。

 

何がどう危ないかについては、私などが今さら改めて言うまでもございますまい。依存と支配はワンセット。素寒貧すかんぴんになった上に借金までして、やれお導きを開運をと崇め奉ってしまう。借金しなきゃいけない時点で金運ねえじゃんか、ということに気づくこともなく……。

 

で、やはり「スピリチュアルジプシー」というのもまたいるわけですよ、残念ながら。強力な守護霊を付けてあげましょう、そして次はおなじみ龍を、なんて言われて気づけば沼。おーこわこわ。

 

私の師匠はよく「AさんとBさんとCさん、誰と付き合えば一番得ですか? というレベルの人はこのサロンにたどり着けないようにしてある」と言います。「ようにしてある」というところに何というか未知なるパワーを感じますが、要はインスタントな答えや小手先の救いだけを求める人は来てもしょうがないということで、それは師匠やともに学ぶ仲間たちを見ていればよく理解できます。「オーラが金色だから強運」とか「あの人がお金持ちなのは前世が高貴だったから」とかいうレベルの人も、おそらく師匠のサロンには一生たどり着けますまい。

 

「肉の自我の私に何ほどのことができるかわからないけど、神の道具として使っていただけるなら如何ようにも」

師匠がよく使う言い回しです。肉の自我、すなわち肉体と顕在意識の次元にある自分には何ほどのこともできない神、あるいは肉体を持たない高次元の存在に力を貸してもらえて初めて、それを人のために使うことも叶う。

この考えは二つの意味で大事なことだと私は思っています。

一つはヒーリングを受けるクライアントに、一般的にありがちな誤解を与えないこと。少なくとも私どもが師匠から教わるヒーリングは、何でも望みを叶えてあげる魔法でも龍の卸売りでもありません。最終的に自分の在り方や意識の持ち方を決めるのはクライアント自身であって、ヒーラーは決めてあげられません。

そしていま一つが、ヒーラー自身が己の能力を誤解しないこと。「ヒーラーたる自分は人を救ってあげられる」とか考え出すと、これはもう危険信号と言って差し支えありません。当然その考えは「人を救ってあげられるヒーラーたる自分はすごい人間である」というところに容易に行き着きます。高次元の存在の力はあくまで拝借するものであって、絶対に「使役」するものではなく、「贈与」なんてのはもはや論外。自分がすごい奴であるとか、すごい奴になりたいとか、すごい奴だと思われたいとか思い始めると、大概間違えます。

 

占い師もまた然り。私が占ってもらったのはこの20年でせいぜい5回ほど。決して多くはない経験の中で、やはり出会ってしまうわけですよ。「目先の小銭欲しすぎ占い師」とか「毒舌キャラで売れたすぎ占い師」とか、何か変な努力をしちゃう人たちにただまあ、そうして養われた「占い師を占う能力」には確かな自信があります。信頼と実績の占い師占い。

そんな私が素晴らしいと思った、初めて相見えた占い師さんのことを、改めてお話ししておきましょう。

約20年前、札幌某所の占い屋さんの一室。私のしわくちゃの掌を眺めながら、50代と見える女性の占い師さんは特に驚くふうもなく「ああこれは、多いねえ」と、独り言のように呟きました。この線はああでこの線はこうで、といった説明をひとしきり終えると、こんなことを言いました。

 

「例えば小さな水槽しか持ってない人は、ちょっと水が入ればすぐいっぱいになって満足するけど、あなたの水槽は大きすぎて、同じ量の水を入れても全然いっぱいになった気になれない。普通の人にしたらすごい努力をしても、あなたは全然満足できなくて、どんなに頑張っても努力が足りないと思ってしまう」

 

ほほう、それはまた……。

 

ストラーーーーイク!

ど真ん中のストレートにまったく手が出ず、1球で三振したかの如く呆然とする私に、占い師さんは続けて言います。

 

「もっと馬鹿にならなきゃ」

 

その後もご自身の経験談などを交えつつ、途中で鳴ったアラームもすぐ止めて、「今日はほかにお客さんもいないし、延長料金もいらないからね」と、心ゆくまで語り合ってくれました。

 

無論、それで人生が一変したわけではないけど、自分では気づけなかった自分の特性を客観的に知れた経験や、「もっと馬鹿にならなきゃ」という金言は、自分の生き方在り方を再考する大きな契機となったことは間違いありません。まあ、再考した結果20年後に己がヒーラー修行を始めるとは、その時の私は知る由もないのでしたが……。

というわけで、このブログも今後より一層馬鹿馬鹿しいものにしてまいろうと、決意も新たにした次第にございます。じゃ~ま~たね~ば~いば~い。

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第19次元  意識が先か、環境が先か――永き前フリの果てに。

札幌から東京に移って4年が経ち、師匠と出会いヒーラー修行を始めて1年半が経ち、東京は足立区から、同じく都内の故郷の街に移って間もなく1年が経とうとしております。その間様々変化があったわけですが、環境の変化という意味では、当然札幌から東京への移住が最も大きいと言えましょう。まあ、そもそも私の故郷は東京なので、厳密に移住と言えるかどうかは微妙なところですが、都内といえど移る先は縁もゆかりもない街、そして恥ずかしながら四十にして初めての一人暮らし。「人生の転機」という言葉には、十分に値しましょう。

 

「無職移住」にあたっては様々難関もございましたが、ありがたくも諸々の条件が整い、不動産屋さんのご尽力も賜り、ついに私は足立区某所のアパートの鍵を手にすることができました。内見はスケジュール的にも不可能だったし、したところで気に入らないからチェンジ! なんて無職の身でぬかせるはずもなく、新たな住処に初めて足を踏み入れたのは契約締結後、つまりは鍵を手にしてから、ということに相成ったのでありました。

 

2017年12月、クリスマスを目前に控えた、ある日の午後のことでございました。がらん堂の六畳ワンルーム。年が明ければ、ここで新たな暮らしが始まる。昼なお薄暗く、底冷えの厳しい六畳に一人佇む私の胸の内は、希望に満ちていました。

 

これで人生が変わる。ようやく「自分の」人生が始まる。

札幌で過ごした30年、もちろん楽しいこともたくさんありました。親友にも出会えたし、よき思い出などもそれなりにあります。が、時が経ち、歳を重ねるにつれ、ここで度々語ってきたように、世間との齟齬(そご)や、何をやっても報われない空しさ等々、様々な要因が複雑に絡んで織りなす閉塞感や無力感に苛(さいな)まれるようになっていたのもまた事実。

――このままここでくすぶったまま一生を終えるのか。

四十になってぼんやりそんなことを考え出し、そうなったらなったでもう仕方あるまいよと、諦めに近い境地に入ったところでこの手に転がり込んできた、小さな鍵。

この鍵が私の人生を、未来を、開いてくれる……。

 

まあ、ある意味ではその通りになったと言えなくもない。東京来て、師匠に出会って今があるわけだし。

ただ、なぜ師匠に出会ったのかといえば、それは私が東京来て2年半経って相も変わらず閉塞感や無力感に苛まれた挙句、這(ほ)う這うの体(てい)で師匠のサロンに転がり込んだから。つまり。

 

環境が変わるだけでは、人生は変わらない。

 

札幌実家暮らしから東京一人暮らし、くらいの一大変化であっても、少なくともそれだけでは人生が根本的に変わることはない。

無論、転居や転職で人生変わったという人もこざいましょうが、その場合はおそらくもう一つ二つ、別の要素が噛んでいるはずです。例えば、転居先の街で習い事を始めたらどハマりしてそれが仕事になっちゃったとか、転職先で生涯の伴侶と出会ったとか。要は環境が変わったことがきっかけで、何かしら自身の「意識」までもが変わる体験をしたということで、転居や転職そのものがダイレクトに作用したとは、そのような場合言えないでしょう。引っ越すだけじゃあ人生変わんない。私はそれを、身をもって学んだのでありました。

 

引っ越して変わんないもんが、ちょっと旅に出るくらいで変わるはずもございません。それもこれまで山ほど経験してきました。

この十数年の間に、いわゆる「パワースポット」と呼ばれる場を数多(あまた)巡ってまいりました。三輪山(みわやま)、天河(てんかわ)大弁財天社、第14次元でお話しした竹生島(ちくぶしま)など、札幌からとなると結構ハードル高いとこも頑張って行きました。遷宮3日後のほやほやの伊勢神宮にも詣でました。東京に来た年、まだ師匠出会う前には、深夜バスで博多、そこからまたバスで高千穂へと、まるで伝説のあの番組さながらの旅もしました。ケツの肉がボロボロ剥がれ落ちる夢」こそ見ずに済んだものの、そういったある種の「試練」を伴う巡礼なども散々やった結果、やはり何も変わらず、私は師匠のサロンに転がり込んだのでありました。

これもやはり、その旅を通して自分の「意識」が変わったか否かという問題でありましょう。無論、結果がどうであれ旅そのものが貴重な体験であることに変わりはありません。が、日常と違う環境に何日か身を置いた、というだけでは、人生が根本から変わることはありません

 

では、住む街を変えて一人暮らしを始め、それに伴い職も変え、結構過酷な旅に出てそれなりに学びもした私の人生が、意識が、こうも頑なに変わらなかった理由とは、一体何なのでありましょうか。ここはいかにもヒーラーっぽく、ハイヤーセルフ閣下にお尋ねしてみますと……。

 

理由1 本気(マジ)じゃない。

もう元も子もないすね。ただ言われてれば確かに、という節はあります。

これで人生変わるといいけどね

どれほど霊験あらたかな神社仏閣に詣でようと、どれほど御神氣あふれる聖地へ参ろうと、この程度の気の持ち方じゃあそら意識も何も変わらないよね。特に第4次元でも触れたように、今思えば稚拙極まりない賢しらニヒリズムに浸って「悟った」つもりで、その実ただただいじけていただけの時期などは、「どーせ叶わない」何かを期待することを恐れていた節さえありました。

「別にこれで人生変えようとかしてないし、神様に見込まれるようなタマじゃないのも承知の上すけど一応来てみました」くらいの感じで行って、きっちり何も変わらず帰ってきて「そらそうすよね、別にいいんすけど楽しかったし」で終わる。あとは「何でこうも変わらないんだろう」という疑問を押し殺して生きるのみ。

まあ実際楽しかったし、行けただけでラッキーっていうのも本当なんだけど、明確に「自分の中の何かを変える」という強い意図を持って臨んでいたらもうちょっと違う結果になってたかも、とは思います。

東京に出てくる時だって、住みたい街があったのに「いやー家賃もそこそこするだろうし、そもそも無職の分際で何をか言わん」と不動産屋さんにぼんやりとした希望しか伝えられませんでした。結果どうなっていたかは別として、本気で人生変えるという意図をしっかり持っていたら、言うだけ言えたんじゃないかなあ。「お客様正気ですか? 東京お舐めになられてるんですか?」とか言われたって別によかったじゃん、とちょっと後悔してます。

 

理由2 逃走中

これもわかりやすいすね。旅は一時の現実逃避。それ自体別に悪いことでもないし、単純なガス抜きが大事なこともありましょう。が、当然帰ってきたら元の木阿弥、何も変わらない日常に戻るのみ。せっかく行くならやはりもうちょっとポジティブな意図、なんならあからさまに「ご利益」を求めるくらいのほうがまだましだったかもしれない。理由1と併せて考えると、迎える神様サイドからすれば「ではお主一体何をしに参ったのぢゃ?」という話です。遠路はるばるやってきて、何をくれとも言わないけど物欲しそうな顔だけはして柏手打ってる、みたいな。

さすがに転居の時はもっとポジティブであったつもりでしたが、これとて引っ越しが終わったら別にやりたくなくともとりあえず何か仕事探して、ってなった時点で引っ越す前の意識と同じ。札幌でのどん詰まり生活からとんずらこそ叶ったものの人生を根本から変えるには到底至りません。

 

なるほどなるほど、閣下のお言葉、身に沁みてございます。が一方で、そういう経験をさんざんしてきて、あっちもこっちも行き止まりできっちり八方塞がりになったからこそ、師匠との出会いが私にとって意味のあるものとなった、ということでもあります。一つでも活路、あるいは少なくとも自分ではそうだと思えるものがある状態で出会っていたら、きっと私は師匠からの学びのお誘いをお断りしていたことでありましょう。そこにお金や時間を使うという選択はしなかったはずです。

2020年7月というのはそれくらい絶妙なタイミング、それまでの人生でただの一度も、自分がやろうとかできるとか考えたことのない「ヒーリングを学ぶ」という突拍子もないことを、やってみようと「思えてしまう」条件がすべて整っていた時期だったのです。

 

環境が変わっても意識が変わらなければ人生は変わらない。

くどくどとそんなお話をしてまいりましたが、こうして改めて考えてみると、先に変わるのが意識か環境かは人により時によりまちまち。つまるところ「どっちが先でもいいじゃん、最終的に意識が変われば」という、何ともあやふやな結論に至ってしまいました。

ただまあ、そういうものでございましょう。意識が変わった結果「環境を変えない」という選択をすることもあれば、意識を変えるトリガーとして環境の変化が必要なこともありましょう。私のように、環境が変わってから意識を変えるチャンスを得るまでに2年半もの「前フリ」が必要なことだってあるんです。

そういう意味では、その長い前フリをきっちりやりきって、行き止まりの壁にデコぶつけるというオチまでつけるのも大事なことだと、今の私などは思うのであります。

今までの自分が生きてきた世界は、どこへ行っても行き止まり。それを身をもって実感し、納得することで初めて、今までの延長線上にはないまったく新しい世界を受け入れられる。そういう生き方も、悪くはありますまい。

 

もちろん、デコぶつける前に気づけばそれに越したことはないですよ。ただ私のような生粋の修行僧はそれを良しとしないだけで。特殊訓練を受けていない方は真似されませんように。無駄に心身を削られます。

 

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第18次元  孤独のスピ――肉のにおいに揺らぐ孤高の魂。

いざこざやしがらみを避けて、世捨て人よろしく娑婆(しゃば)を斜めに闊歩する私のような者でも、やはり人の世に生きていることに変わりありません。浮世の面倒とまったく無縁でおれるはずもなく、人との関わりの中でげんなりすることもままあるわけです。

特に職場という空間においては利害や立場など、いわゆる3次元的な価値観が如実に反映されることも少なからずございましょう。また会社に限らず、「組織」というものは大変に腐り易うございます。下流が少々濁る程度ならさほど問題にもならないのでしょうが、最上流で湧いたそばからゴミ流す奴がいたりするともうどうしようもない。

上流下流と言ってもそれはあくまで組織体系、伝達系統の話で、人間関係においてどっちが偉い偉くないの話ではない、はずなのですが。そういう濁った流れには第0次元で軽く述べたとおり、組織の中でのちょっとした立場やキャリアの差を単なる上下関係と勘違いして、あるいは故意に置き換えて、親ほど年上の人に平然とタメ口で指図するようなお可哀想な輩が澱みとなって現れてしまうのであります。上流からきれいな水が流れてくればそんなメタンガスの泡みたいな輩は一掃されるんでしょうけど、ゴミしか流れてこねんじゃあしょうがねえ。

無論、スピリチュアリズムでは良い悪いのジャッジをしませんので、ここまでお読みになって「そんなパラダイスみたいな会社がほんとにあるのかい?」と思われても、それが間違いだというわけではございません。なんならこっそり所在地を教えてあげますから、どうぞ心ゆくまで「パラダイス」をご堪能くださいやし。私はおかげさまでそんな「地獄」を卒業できましたけど。

 

遡って学校生活においては、私は幸いそんな地獄を見たことはありませんでしたが、第15次元で申し上げたように、高校に入った頃からちょっとずつ周りの人たちとの世界観のずれを感じはじめ、世間との距離感を意識するようになりました。

別に「絶対に誰とも仲よくならないぞ!」という強い意志を持って臨んだわけではないし、俗に言う「ぼっち」だったわけでもないけど、卒業後も連絡を取り合うほど仲のよい友人はいませんでした。

これが大学になるともう完全に「ぼっち」で、せいぜい10人ほどだったはずのゼミの同級生すら、申し訳ないけど誰一人、今となっては顔も名前も憶えちゃいないというありさま。

いずれにしても自然に生きててそうなったんだからしょうがないし、もっと仲よくなっておけばよかったと後悔することもありません。時を戻して同じ顔ぶれでやり直しても、結果は同じでありましょう。「小中からの親友がいるから別にいいや」で終わり。

 

そんな孤高の修行僧を気取る私ですが、やはり人の子(推定)。人と人とのふれあいや絆に、ふと羨望を感じることなんかもあったりします。

例えば、休日に公園でバーベキューなどしている人たちを見かけた時。みんなでわいわい、いいなあ、楽しそうだなあ……。

決してお肉が食べたいわけではない。いや、お肉も食べたい。できれば焼きそばも。ただそれ以上に、仲のよい人が集まって語り合い、笑い合う姿を見て、単純に羨ましく思ってしまう。

それから、芸人さんやミュージシャン、スポーツ選手たちのいわゆる「下積みエピソード」にも、ある種の憧れを感じることがあります。

身一つ、夢一つで飛び込んだ厳しい世界で、仲間たち、時にライバルたちとも助け合い、やがて世に出たのちにみんなで振り返って「あの頃は大変だったよなあ」なんて笑いながら語り合っているのを聞くと、いいなあ、と思ってしまう。

「他人事だと思って」と怒られてしまうかもしれない。実際、お金がなくて苦労したり、無名ゆえの理不尽な扱いに涙を吞んだ、なんてことも多々あったことでありましょう。あるいは第5次元でも触れたように、この類の話には多分に「編集」が施されていること、そして何より「人と比べることに意味はない、自分には自分の人生がある」というスピリチュアルな正解を忘れてはなりません。が、その上で、それでもなお、腐れ縁すらなかった私などは、ちょっと羨ましく思ってしまうのであります。

 

ただこれにしたってやはり時を戻してやり直したとして、結果はそう変わりますまい。大学生にもなって講義中にどんちゃん騒ぎしてるような人たちとは、何度出会っても仲良くなれる気がしません。

また違う側面から見れば、そういう連中のうちにも、もしかしたら互いに助け合い、切磋琢磨し合える人物がいるかもしれないという一縷(いちる)の希望に賭けて、そういう人を探し出そうと努力することもない、ということにもなりましょう。そうまでして人との出会いを自分からぐいぐい求める熱量は、今も昔も持ち合わせていないというのが実際のところ。「俺、つるむの嫌いだし」とか言ってっから誰ともつるめなかったんだよ、ってえ話です。それがいいとか悪いとかの問題ではないし、残念と言えば残念だけど、やはり後悔はしていません。私の今生の人生において、必要だったか否かの問題。それだけのことです。

 

またまたそんな孤高の修行僧を気取る私ですが、意外なことに街で知らない人から声をかけられることがしばしばあります。写真撮ってとか道教えてといった軽めのものから、「切支丹(キリシタン)になりませんか?」とか「うちの店でバーテンダーやってみない?」などなどトリッキーかつストロングなものまで、様々なお声がけをこれまでいただいてまいりました。

切支丹へのお誘いは30歳前後の一時期なぜか集中しました。いよいよ日本の修行僧からキリシタンモンクへと変貌を遂げるのかと少々心配にもなりましたけど、私は私でその手の話は当時から嫌いではなかったので、けっこう話し込んじゃったりもするわけです。

 

とりわけ印象的だったのが、札幌の大通公園で出会った若い男性二人組。日本人とハワイご出身の方のコンビ(?)でありましたが、ハワイの方の日本語がとても流暢で、さらに来日してまだ3か月ほどだというからびっくり。で、向こうは向こうで、例えば「『よげんしゃ』ってどんな人か知ってますか?」という問いに私が「神様から授かった言葉を人々に届ける人」と答えたりすると、びっくりする。

――こやつ、できるな。

とまで思ったかどうかは知らないけど、でも実際彼ら曰く、この質問をするとみんな「いついつに地球が滅亡します」とか「〇年後にあなたはハゲます」とか言う人、すなわち「予言者」の意味で答えるんだとか。「『預言者』の意味で答えたのはあなたが初めてです」と彼らはいたく感激してくれて、その後彼らは一神教たるキリスト教の素晴らしさを、私は多神教たる神道や、自然界のあらゆるものに神を見出す日本的なアニミズム信仰などを語り、おそらく30分かそれ以上、大通公園の一角で立ち話を決め込んでおりました。

結果的に入信こそしなかったものの、お互い楽しく有意義な時間を過ごすことができ、その証として別れ際に堅く握手を交わしたことを、今でもよく覚えています。

 

その一時期以降はキリシタンへのお誘いを受けることもなく、私は相も変わらず孤高の修行僧を気取っているわけでありますが、知らない人から声をかけられることはやはりけっこうあったりします。

今年、2021年の春まで、3年ほど暮らした都内某所の六畳ワンルームの近所には、中川というまあまあ大きな川が流れていました。土手が遊歩道になっていて、気持ちのいい場所だったのでよく散歩したものでした。

ある日の夕方、いつものように風に吹かれてゆるゆる歩いていると、後ろから歩いてきた人が、私と並んだタイミングで声をかけてきました。

「よく散歩するんですか?」

声の主は年配の男性、話しぶりも足取りもまだまだしっかりされています。七十代半ば、といったとことでありましょうか。

「ええ、気持ちがいいのでよく来ます」と私。

「そうですか。私は足腰を鍛えるために、あそこの木のところまで毎日行って帰ってくるっていうのを続けてるんですよ」

「いいですね、けっこうな運動になるんじゃないですか?」

「うん、おかげで今年九十四になるけど、まだまだ元気にやらせてもらってますよ」

へえ、そうなんだ。

……え?

え? ええ!! き、九十四!? 見えん。お世辞でも何でもなく、まじで。八十代にも見えん。

驚きに言葉を失う私に、ご老体は一言「お互いがんばりましょうねえ」と言い置いて、ゆるゆる歩く私を颯爽と追い抜いて行かれました。

 

またある日の昼下がり。ゆるゆる歩いていると、土手の下、ちょっと離れた川辺のほうから声がかかりました。

「ちょっとー、これ、見てくださいよ!」

見れば釣りをしている人の手元に、遠目に見ても立派な魚がぶら下がっています。

「おっきいですねー、何ですかそれ!」と私も声を張り上げます。

「すごいでしょ、これね、クロダイですよ!」

へえ、そうなんだ。

……え?

ええ! クロダイ? あの、高級なやつ!? っていうかそれ以前に、ここ川すけど……?

「海から遡ってくるみたいでね、たまにかかるんですよー!」と釣り人が付け加えると、私のほかにもちらほら人が集まってきて……。

 

ってなことがあったんすよと、何かの流れで師匠に話したことがありました。それに応えた師匠の言葉が、孤高気取りのなんちゃって修行僧の、実は本質なのでありましょうか。そしてそれに対して「うーん、そうなんすかねえ……」と、なぜか素直に頷けない私の意識の底にあるものとは、一体何なのでありましょうか。そろそろ頷くべき、認めるべきもののような気もしなくはないのですが、はてさて。

 

師、応えて曰く。

「そういうことがあると、ほんとは自分が人好きなんだってことがわかるでしょ?」

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第17次元  焼くべきか煮るべきか、それが問題だ――どっちでもいい症候群。

 

先日師匠のサロンで行われた学びの会の中で、自分には「どっちでもいい」と思う場面が多いということに気づきました。無論、どっちでもよくない時はその旨発表はするのですが、そういう機会は3割、多く見ても4割くらい。あとの割くらいはどっちでも、あるいはどうでもいい、すなわち「あまり興味がないこと」であると言えましょう。「どうでもいい」といっても別に捨て鉢とかではなく、ここでは「どうであってもOK!」というような意味合いであるとご理解ください。

 

さて、7割ある「どっちでもいい」の中でも最たるものが、私にとっては食事であります。第7次元でも申し上げた通り、私は栄養補給の観点以外、食というものにあまり関心がありません。おいしいものに対する積極性が薄い、といってまずくてもいいやと思っているわけでもない。つまるところ「この世のだいたいのものがまあまあうまい」と感じる私の特殊能力が常時発動しているため、あえておいしいものを求める理由もなく、またそもそもまずいものにほとんど遭遇できない、というのが事実であります。実際この四十余年の人生の中で、私の舌が明確に「まずい」と識別したものといえば、小学校上がりたての頃に給食で出された「大きめ野菜の生煮えカレー」くらいのもんです。

 

一人暮らしの時には「原始御膳」レシピは第7次元参照ほぼ一択でもそれなりに満足していましたが、今は母親が作ってくれるものをいただいており、食生活はありがたいことに大幅にレベルアップした、というか一人暮らしによって大幅にレベルダウンしたものが元に戻りました。

ただ、やはり作る側からすれば毎日考えるのは大変なようで、かつて実家で暮らしていた時の恒例のやりとりもまた戻ってまいりました。

 

「何か食べたいものある?」

「……いや、別に。何でもよろし」

 

我が人生においてすでに7万回は繰り返されたであろうこの会話。巷では「何でもいいとか言っといてさ、いざ出してみればあーだこーだやいのやいの、だから困るのよねえ」というマダムたちの嘆きの声も聞かれるようですが、私はそんなケチな真似は断じてしません。心の底から何でもいいと思っているから「何でもよろし」と答えるのであって、例えば夕飯の食卓にカップ麺が乗っていたなら私は黙ってお湯を注ぐし、冷凍チャーハンの袋が乗っていれば黙ってチンする。それが筋というものでありましょう。

ありがたいことに今のところそのような事態が起きたことはありませんが、仮に起きたとしても、別に「おふくろの奴明らかに何か仕掛けてきてるけど、何でもいいっつっちゃったしなあ」みたいなしぶしぶ感も持たないと思いますよ、私は。「今日の夕飯はカップ麺である」という事実に、良くも悪くも心を動かされるイメージが湧かない。せいぜい「お、珍しいこともあるもんだねえ」くらいのもんでしょう。「博多とんこつと札幌みそ、どっちがいい?」という質問にすら、私は「どっちでもいい」と答えてしまうに違いない。まあ、さすがに毎日となると栄養補給の観点からもあまりよろしくないので何とかするんでしょうけど。

 

食事に関しては万事がこんな調子でありますから、たまに「サバ買ってきたんだけど、焼くのと煮るのとどっちがいい?」なんていう深淵なる問いを投げかけられると、私の頭脳はフリーズしてしまいます。さもありなん。食材の希望がないのに、調理方法の希望なんかあるわけないじゃん。「うわー焼いちゃったのかよ何してくれてんだよ」とか「うーん今日は煮ないでほしかったなあ」とか、俺が一度でも言ったことがあるかい? と思いつつ、いつものように「どっちでもよろし」と答えるのみ。焼いたって煮たって、サバはうまい。それが私にとっての真実なのであります。

 

焼くか煮るかなんて聞かれたって困っちゃうんすよねえあはは、なんて軽い気持ちで口走った私に対する師匠の返答は、私にとってはちょっと意外なものでした。曰く。

それは「選択の放棄」である、と。

 

うん、まあ確かに言われてみればそうかもしれない。けど、私は私で思うところがあります。

「でもね師匠、僕は本当に、心底どっちでもいいと思ってるから、素直にそう答えてるんすよ」

「でもね」と師匠。「本当はどっちでもいいと思ってないこと、自分で気づいてる?」

「……え?」

「ちょっとの差かもしれないけど、本当はどっちかがいいと思ってる自分を、感じ取ろうとしたことある?」

「……うぬぬ」

確かに。「焼く煮る問題」に限らず、メシに関する選択肢に対して、半ば条件反射的に「どっちでもよろし」と答えてしまっていた節があることは否めない。仮に「どっちでもよろし」と答えるなら、それは己にとことん問うて、しっかりじっくり感じ取った結果がどうしても50対50にしかならない場合にのみ致し方なく、ということになりましょう。が、実際のところそこまで頑張って違いや差を感じ取ろうとしたことがあるかと言われればそれはもう、掛け値なしで一回もない。

よくよく吟味すれば51対49で「焼き」に軍配が上がるものを、ろくすっぽ考えもせずに「どっちでもよろし」などと流していたのだとしたら、私はその2点の差を無視して生きてきたことになります。そして先述のとおり、この類のやりとりはこれまでに7万回あったので、通算で14万点、いや、3点以上開くことも多々あったろうし、メシ問題以外の選択機会も当然あったわけだから、少なく見ても倍、下手をすれば50万点以上の差を「ないもの」としてきた可能性すらあるのです。

 

「小さいことを気にしない」と言えばおおらかで聞こえがいい気がしなくもありません。が、選択の連続で成り立つ人生において、これほどの失点を選択の放棄、選択の「失敗」ではなく「放棄」によって重ねてきた人間が、思い通りに生きられないのは当たり前の話。そもそも選択しない、意図しない人生に、思い通りも何もないのです。

 

「あなた欲がないからねえ」と、いつか師匠に言われたことがあります。前回申し上げたように、物質主義的、あるいは権威主義的な欲は確かに薄いほうであるという自覚はあるにせよ、決して無欲なわけではありません。それなりに欲しいものややりたいことなどあるわけですが、じゃあそれら、すなわち「どっちでもよくない、どうでもよくない」ものはすべて思い通りに手に入れてきたのかといわれれば、まったくもってそんなことはない。そしてそれら叶わなかった願望については「まあしょうがねえか」くらいで淡々と済ませ、その過程で自分が何をどう意図してそうなったのかを振り返ることもなく流してきたという事実も、きっちりあるわけです。

そう考えると、私は「どっちでもよくない」ことに対してすら、実は選択を放棄してきた、意図を働かせてこなかったのではないか。そんな疑問に至るのであります。

 

この辺り、正直なところまだよくわかりません。今の私に「真に正しい意図、正しい選択」の何たるかがわからない以上、これまでの意図や選択が正しかったのか否かを検証する術はありません。

ただ一つ、ヒントになりそうなのが第4次元に記したこと。

 

私風情がこの一生で手にできるものは所詮限られていて、何かを選択できるとすればそのごくごく狭い範囲内だけの話。

そんな決めつけ、思い込み、あるいは自己弁護、自己防衛によって、何かを望むこと、求めることの空しさから目を背けてきた、ありものやおこぼれで満足したふりをしてきた過去の私の意図も、やはり限られた、いや、むしろ自ら「限った」ものだったのではなかろうか。

無論、ありものやおこぼれに満足してはいけないと言っているわけではありません。それはそれとしてありがたく頂戴しましょう。その上で、その時その時、自分が本当に欲しいもの、したいことに対して常に意識を向けて、しっかり意図を働かせねばならない、ということでありましょう。

過去のうまくいかなかったことに意識を向けたままでは、これからも当然うまくいかない。その辺りに関してはそろそろ、踏ん切りをつけねばなりますまい。

 

さて、思えば「焼く煮る問題」からずいぶん遠いところに来てしまったような気もいたしますが、しかしながらそんな些細な選択の積み重ねが今の私の現実を作り上げているとなれば、なかなか馬鹿にできない、まして放棄するなどもってのほか、ということを私は学んだわけであります。

とはいえ、今後の私に「今日だけは絶対に焼いてほしい!」とか思う日が来るのか。でなければ、ほんのわずかな差を感じ取るためにいちいち長考に入らねばならんのか。悩ましいところであります。いっそ「3秒以内に答えなければ家が爆発する」くらいのバーチャルルールでも設けてみようか。その緊張感が吉と出るか凶と出るかについては、結果が出次第報告いたします。いつになるかわかんないすけどね。

 

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第16次元  追想3.5次元――世間がどう 時代がどうとか 知らねえよ

前回の続き、樹海のセーブポイントからゲーム、じゃなくてお話を再開いたしましょう。

 

プログラムの授業における惨敗、並びに映画『もののけ姫』との出会いにより、私は大学に通う意味をきれいに見失いました。ゲーム制作への関心が薄れた上に、己の、さらには人類の存在意義にまで疑問を抱き始めてしまった私にとって、コンピュータや経営、経済を学ぶ理由はもはやありません。

2年生、3年生で、単位、落としまくります。卒業、危うくなります。

元より「大卒」の肩書き自体にはまったく興味のなかった私は、この頃本気で「辞めてもいいかな」と思っていました。が、自分の意志で選んで入った手前そうもいかず、ひたすら悶々と過ごしていました。経営学科に通いながら、考古学や民俗学の本を読み漁る。人は樹海に迷い込むとこうなります。

 

樹海暮らしに一筋の光明をもたらしたのは「卒論」でした。3年生で「ゼミ」という専門的な授業を各々選択し、そこでの研究を基に4年生で卒論を書く、つまり2年間同じゼミに所属するというのが通例なのですが、私の場合ここで一つ、ある種の「導き」とも言える流れが起こります。

3年生で所属した経済学のゼミの先生が、その年度限りで他校に転勤することになったのです。他のメンバーは新任の先生のゼミにそのまま所属したようですが、私だけは、卒論に選んだテーマに適しているから、という先生の計らいで、元々あった環境問題のゼミに「移籍」したのです。

3年生の時は「大量生産・大量消費・大量廃棄」の経済システムが人類を堕落させたのだ!! みたいな流れで行けば、経済学を隠れ蓑に、当時最も関心のあった「この世界における人としての生き方、在り方」といった要素も多少は盛り込めるかも、くらいで納得していた私ですが。

 

この「移籍」を機に、暴走を始めます。

民俗学、ぶっ込みます。

 

かくして3年生からのトータルの流れで、経済学から環境問題、環境問題から民俗学、という、暴挙以外の何物でもない展開で卒論を書くことに成功したのです。くれぐれも申し上げておきますが、経営学科での話です。

しかしながら、4年生になって初めて大学で夢中になって取り組めるものに出会えたというのもまた事実。関係する資料を集め、それを基に考察し、自分の「論」を構築し、文章として表現する。私にとってこの経験の価値は計り知れず、結果論的に言うなら、これを経験するためだけに大学に入ったと言っても過言ではありません。

論文の内容についてはのちの機会に譲りますが、言うまでもなくそこには多分に「スピリチュアルな」要素が含まれていたりもします。そんな私の暴挙の集大成たる卒論を「論文というよりは読み物みたいだね」と面白がって受け入れてくださった先生、そして私の研究テーマを考慮して移籍の手筈を整えてくださった元のゼミの先生に、ここで改めて感謝を申し上げる次第であります。ほんと、変な卒論出してすいやせんした。

 

ともあれこの卒論を書くことによって、自分の人生の基本方針を、生涯で初めて、明確に打ち出すことができました。ごく簡単に言えば「あなたは目に見えない世界を信じますか?」という問いに、ちゃんと「はい」と答えた、ということであります。無論それは、幽霊がいるいないのレベルのお話ではありません。お金や権威、権力を含めた物質至上主義とは異なる原理で成り立つ世界がきっとある、という大前提の下で、己の生き方在り方を探求する。そういう人生にしていこう、というか、そういう人生になっていくんだろう、ということが、大学を卒業する頃に何となく見えてきたのでありました。

 

こうして振り返ってみると、学歴を終える頃にはすっかり「出来上がって」いた、すでに「こちら側」に片足突っ込んでいたようにも見えますが、この時点ではまだ、いわば「客観視」の状態。第2次元でもちょっと述べていますが、目に見えない世界があると信じつつも、それにすがりも頼りもしない。その世界を生き抜くのはあくまで自分であり、行く道は己の力によってのみ切り拓くことを理想とする。この時片足を突っ込んでいたのはまさに「なんちゃって修行僧」の世界だったのでした。

 

長い長い「なんちゃって修行僧」時代の詳細はおいおい語るとして、ここでは今回の一応のテーマ「価値観」にフォーカスして話を進めましょう。

 

暴挙の果てにめでたく大学を卒業した私は、当然の如く就職を、しませんでした。

度々申し上げるように、世の中不景気真っ只中、のちに「就職氷河期」と呼ばれる時代のこと、なのですが。

この件に関しては、不景気も氷河期も関係ありません。

 

だってしてないもーん、就活。一個も。

できたできなかったの話じゃない。就職「しない」という選択をしただけの話、それも熟慮だ決断だなんて大層なものでもなく、言ってしまえば「直感」に従ったまでのこと。ゲーム制作にしても、どこぞの社員になってまでやりたいとは思えず、むしろ「正社員」という言葉に、ある種の拒否反応すら感じていました。

 

どこの会社で何の仕事をするかに関わらず、就職して正社員になることは、私を幸せから遠ざける。

 

直感、あるいは当時の世相から得た肌感覚から、そういう結論に至ったのでありました。

で、その直感、その肌感覚が、少なくとも私にとっては正しかったことは、今に至るその後の二十年の間で十分証明されたと言ってようございましょう。第0次元でも述べた通り、実際この二十年の中で生まれたのが「ブラック企業」であり「社畜」であり、バリエーション豊富な各種ハラスメントであり、その結果としての「人の使い捨て」であったわけですが、おかげさまで私はそういうものとの縁を皆無とまでは言わずとも、最小限にとどめて過ごすことができました。ゲーム業界の変遷という観点でも結果は同じ。仮にその世界に入っていたとして、どこかの時点で「金払えば強くなれるゲームなんざ作りたかねえ!」っつって辞めてたろうね、絶対。

 

で、晴れて世に言う「フリーター」の身となったわけでありますが、時同じくしてこの頃、世の中の一部でフリーターを持て囃すような風潮が見られました。「これぞ新時代の生き方、組織にしがみつく生き方はもう古い!」といったような論調で、「就職できずに仕方なく」ではなく「自分の意思で積極的に」フリーターになるという選択が、新しい働き方として脚光を浴びていました。

それはそれで大いに結構でござんしょうが、それに気をよくするほど、私は素直な人間じゃあござんせんでした。私は私がよりよく生きるための選択をしただけで、別に新時代のトレンドに乗っかろうとかしてないし、そもそも時代がどうだからこう生きようなんて考えは、当時も今も、微塵も持ち合わせておりません。時代がどうとか世間がどうとかいう価値観は、全部あの世に置いて生まれてきた。そうとしか思えないくらい、私にはその類の感覚が欠落しているのであります。

それは物に対しても同じで、世間での流行や評価と、私の趣味嗜好との間には、何の相関関係もありません。巷でどんなに流行ろうといらんもんはいらんし、評価されなくとも好きなもんは好き。決めるのは私です。

 

例を挙げるとなるときりがなさそうですが、ちょっとだけ出してみましょう。

それこそ就職などしてそこそこ稼ぐようになると、特に男子には車を持ちたがる人が多いようですが、私は車にまったく興味がありません。札幌にいた時は軽自動車を所有していましたが、それはあくまで生活のため、仕方なしに、です。北海道に住んだことある人ならわかると思うけど、冬なんかは車ないと買い物もままならんのですよ、ほんとに。

でもね、ベンツに乗りたいとか、なんちゃらGTターボカスタムみたいなのが欲しいと思ったことは一度もありません。もちろん、本当に好きなら乗ればいい、買えばいいんですよ。「好きな車に乗ることが何よりの幸せ」という価値観の人もいるでしょう。ただ、私はそうではなかった。ブランド服やバッグなどについても同様。私はまったく興味ないけど、世の中にはそれらを求める人々が相当数いるようです。やはりこれらも本当に好きならいくらでも持って、幸せや豊かさを味わえばいいと思います。事実、師匠も「清貧」をよしとはしません。

 

ただ、それらは時に「ステータスシンボル」みたいな言われ方をします。これは……、ちょっとね。

 

「あなたをワンランク上のステージへ」

(笑)

 

ワンランク上と思われたいだけなら、やめようね。

 

最後に、じゃあお前さんはどうなんだい? という話ですが、無論私とて無欲ではありません。欲しい物は欲しいです。で、私が欲しくて手に入れた物の中で、金額的にもスペース的にも大半を占める物は何かというと、それは「絵」です。絵画。

足掛け20年で十枚ほど所有、軽自動車新車3台+中古1台分くらいお金使いました。

ドン引き上等。引きたくば引くがよい。余は満足ぢゃ。

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第15次元  追想3.5次元――なんちゃって修行僧の原点に迫る。

日本各地の聖地やパワースポットなどをそれなりに巡り歩いてきましたが、「家族旅行のついでちょっとだけ」などの特例を除けば、すべて一人で回っています。それもそのはず、どことも知れぬ山の中を延々5、6時間も歩かされた挙句チェーン店でメシ食ってネットカフェで寝ると知ってついてくる人間は、家族や親友も含めてこの世に一人もません。私からすれば、こんな楽しいこと何でみんなやらないんだろうと不思議で仕方ないのですが、まあそれなりの体力と根性が要ることも承知しているので、あえて誘うつもりもございません。前回お話しした「激闘!雨の竹生島編」などは、はっきり言ってゆるい方です。ほらね、もう嫌んなったでしょ?

 

第9次元で申し上げたとおり、師匠や仲間たちにすらドン引きされるようなことをライフワークとする身でありますゆえ、3次元の物質至上主義の価値観になど馴染めようはずもあるまい、とはこれまでさんざん書き綴って参ったこと。

では、このとてもユニークな、師匠をして「修行僧」と言わしめた私の価値観の源とは、一体何なのだろう。

前回を書いている時にふとそんなことを考えたので、今回はこいつでひとネタいってやろうと思います。普段はおおよそ構成に見当をつけて書くのですが、今回に関しては正直ノープラン! 私自身、どんな内容になってどう締めるのか、今の時点では皆目見当もつきません。では、ハイヤーセルフ閣下とコンタクトを取りつつ、早速参りますよ。

 

とりあえず、私の価値観と3次元的な価値観をざっくり比較してみましょう。私が生きてきたこの40年あまりの間、世の中で「価値あるもの」とされてきたものを、私はどう思ってきたのか。この辺りは第0次元で記したこととも関係してきそうですし、このブログのタイトルにもした「3.5次元」の宙ぶらりんの世界で私が見てきたものや感じたことを、今一度振り返るという作業にもなりそうです。

 

3次元的価値観の第一歩というと、やはり学業、及び学歴でありましょうか。

今や幼稚園入んのに受験なんてのも珍しくないそうですが、幸い私はそれを経験することなく、普通の幼稚園児、普通の小学生として、ガンプラキン消しファミコンとともに充実した幼少期を過ごしました。成績がどうこうなんて気にしたこともありません。五年生になる時に東京から札幌近郊へ移り、環境は大きく変わりますが、学校とか勉強に対する基本姿勢はさほど変わりはしませんでした。

中学生になって多少成績を意識するようにはなったけど、それほど重大なものにはやはり思えませんでした。学年で何位とか誰それより上とか下とか、考えたこともない。

 

ただね、けっこう上でしたけど。

 

だから見ようによっては「余裕」みたいなことになっちゃうのかもしれないけど、私自身は歩いて通える高校に行ければよい、くらいのもんで、別に進学校を目指してたわけではない。ただ、歩いて通える高校がたまたま地域では進学校と呼ばれていただけのこと。私にとっては「進学校」よりも「歩いて通える」ほうがはるかに大事で、ちょいと大げさな言い方をすれば、この頃にはもう「学歴ごときで人生の何が決まるわけでもない」と気づいていました。

 

人並みに受験勉強などして、念願叶って「歩いて通える」進学校に入るわけですが、忘れもしません。入学早々、5月に担任と面談みたいなのがあって、始まるや否や「志望の大学はどこ?」ときたもんです。こいつ正気かと思いつつ「さあ、まだ決めてません」と、私としては至極当然の返答をしたところ、担任のおじいちゃん先生、目をひん剥いて「今の段階で決めてないなんて、遅すぎるだろ!」

 

そのあと何を話したかは何にも憶えてないですが、この時私は自分が根本的に何かが違う「異世界」に足を踏み入れたことを、明確に認識したのでありました。

中学まではなんだかんだ言って小学校の延長ですが、高校となると規模が違うし、四つ五つ離れた駅から電車で来る人もいる。高校というのは初めて身を投じる「世間」とも言えましょう。そして私にとってはそれが「異世界」だった。ほかに異世界要素を挙げればきりがありませんが、学業学歴に限って言えば、その最たるものは教師たちが提唱し、大多数の生徒が無条件に受け入れていた「偏差値に重心を置く生き方」でありましょう。

何を学びたいとか将来何がしたいとか関係ない。とにかく偏差値の高い大学に入ることを是とする。将来云々と言うなら、偏差値の高い有名大学に入りさえすればそれだけで安心安泰、大学の名前だけで一生食えて、人生バラ色間違いなし。

そんな暴論を、いや、もはや暴論にすら達していない、私に言わせれば論と呼べるほどのものでは到底ない与太話を、何の疑いもなく信じて実践する人の、何と多いこと。

 

ただ、こうして振り返ってみても、あの頃の私は冷静だったと思います。もちろんそんな与太話を真に受けたりはしませんでしたが、一方で真に受けている人たちに対して異議を唱えるようなこともしませんでした。己の行く道を偏差値で決めるというならそれも一つの生き方、それもよかろうと。

 

まあ、俺は違うけどね。

なんて悦に入ってる私は、今だに「偏差値」という言葉の意味がよくわかりません。試しに今調べてみましたが、謎は深まるばかり。平均からどれほど離れているかを表す数値なら、0点の奴も高いんじゃないの?

……ええ、こんなもんですよ、私の偏差値への想いは。もう一生関わらんし、たぶん。

 

そんな偏差値の何たるかもわからんような私ですが、高校時代も自分のそれが、こと文系の科目に限ってはかなり高いほうであることは承知しておりました。 なので、私の志望校が、言ってしまえば「低偏差値無名大学」であると表明した時には、教師や同級生、果ては両親までもがこぞって「もったいない」の大合唱と相成ったのであります。

 

もったいない。

……って、何が?

 

私はその頃「将来はゲーム制作に携わりたい」と考えていたので、文系でも多少コンピュータを学べ、かつ家庭の事情を鑑みて自宅から通える大学を志望したのですが、それがたまたま、当世風に言うところの「Fラン大学」であっただけのこと。もったいないと言うなら偏差値に踊らされて何の目的もない大学に四年も通うほうがよっぽどもったいなかろうよ、という私の持論は、しかし周囲からはまったく理解されませんでした。

 

そんな逆風にもめげずに、私は初志を貫いて志望したFラン大学に進学するのでありますが、逆風の快進撃は止まりません。

まずね、大学まで来て人生初の「学級崩壊」を経験するとは思わなんだ。

ええ、見事なものでしたよ。どこの教室、何の講義へ行ってもワイワイガヤガヤ、暮れのアメ横でももう少し静かであろうよという賑わいぶり。最低18歳の人たちが、時に100人近く集まって、そんな光景を作り出していたのです。

これに関しては、のちにバイト先で違う大学の同年代の人たちから聞いたところによると、どこの大学もおおよそ似たような状態にあったようです。少子化によって勃発したFラン大学同士の「お客様」の獲り合いの成れの果て、といったところでありましょうか。時は1996年、出口の見えぬ不況の真っ只中。「就職率」の高さを売りに学生を集めたい大学と、ひたすら「四大卒」の肩書と就職先だけを求める学生の利害の一致が、学問の場に謎の喧噪を生み出した、ということでありましょう。

 

そんな陽気な同級生たちを尻目に、私は私で学ぶべきことを学べばよいと息巻いてはみたものの、私は私できっちり行き詰まります。

プログラマーを目指していたわけではないけど、ゲーム制作に携わるならちょっとはできたほうがいいよね、と思って履修したプログラムの授業が、ちょっともできない。

これはね、正直参りました。もうね、何だろ、決定的にセンスがなかった、としか言いようがない。初級編の初歩がクリアできない。スーパーマリオの最初のクリボーに当たり続ける、みたいなことを延々1年やって、ほぼお情けで単位をもらうのがやっと、という惨憺たる結果に終わりました。

 

その惨状を踏まえて多少の軌道修正は迫られたものの、2年生もそれなりのモチベーションを保って臨んだのですが。

 

当時世間ではまだ「スピリチュアル」という言葉はほとんど使われていませんでしたが、いま改めて振り返ってみると、私が明確に「スピリチュアルな世界に足を踏み入れた」と言えるのは、二十歳になったこの年のことでした。決定的なきっかけとなったのが、この年、1997年に公開された映画『もののけ姫』でありました。札幌の狸小路に当時あった映画館で、立ち見であることも忘れるほどの衝撃を受けた二十歳の私は、その日から大いに「悩む」ことになります。

何にどう悩んだかを詳しく書き始めると全3巻の本になってしまうのでここでは割愛しますが、自分で自分の存在意義を問い詰めるようなことを始めてしまったのは確かなことで、何かを表現したいという意志は持ち続けていたものの、同時にそれはゲームという形では成し得ないのではなかろうか、という疑問を抱くに至ったのでありました。

 

かくして大学進学二年目、二十歳にして人生の樹海に突入した私の運命やいかに?

長くなりましたので、続きは次回といたしましょう。ここまでノープランで書いて、まだ着地点が見えません。このブログも、樹海に突入だ!!

 

 

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