3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第15次元  追想3.5次元――なんちゃって修行僧の原点に迫る。

日本各地の聖地やパワースポットなどをそれなりに巡り歩いてきましたが、「家族旅行のついでちょっとだけ」などの特例を除けば、すべて一人で回っています。それもそのはず、どことも知れぬ山の中を延々5、6時間も歩かされた挙句チェーン店でメシ食ってネットカフェで寝ると知ってついてくる人間は、家族や親友も含めてこの世に一人もません。私からすれば、こんな楽しいこと何でみんなやらないんだろうと不思議で仕方ないのですが、まあそれなりの体力と根性が要ることも承知しているので、あえて誘うつもりもございません。前回お話しした「激闘!雨の竹生島編」などは、はっきり言ってゆるい方です。ほらね、もう嫌んなったでしょ?

 

第9次元で申し上げたとおり、師匠や仲間たちにすらドン引きされるようなことをライフワークとする身でありますゆえ、3次元の物質至上主義の価値観になど馴染めようはずもあるまい、とはこれまでさんざん書き綴って参ったこと。

では、このとてもユニークな、師匠をして「修行僧」と言わしめた私の価値観の源とは、一体何なのだろう。

前回を書いている時にふとそんなことを考えたので、今回はこいつでひとネタいってやろうと思います。普段はおおよそ構成に見当をつけて書くのですが、今回に関しては正直ノープラン! 私自身、どんな内容になってどう締めるのか、今の時点では皆目見当もつきません。では、ハイヤーセルフ閣下とコンタクトを取りつつ、早速参りますよ。

 

とりあえず、私の価値観と3次元的な価値観をざっくり比較してみましょう。私が生きてきたこの40年あまりの間、世の中で「価値あるもの」とされてきたものを、私はどう思ってきたのか。この辺りは第0次元で記したこととも関係してきそうですし、このブログのタイトルにもした「3.5次元」の宙ぶらりんの世界で私が見てきたものや感じたことを、今一度振り返るという作業にもなりそうです。

 

3次元的価値観の第一歩というと、やはり学業、及び学歴でありましょうか。

今や幼稚園入んのに受験なんてのも珍しくないそうですが、幸い私はそれを経験することなく、普通の幼稚園児、普通の小学生として、ガンプラキン消しファミコンとともに充実した幼少期を過ごしました。成績がどうこうなんて気にしたこともありません。五年生になる時に東京から札幌近郊へ移り、環境は大きく変わりますが、学校とか勉強に対する基本姿勢はさほど変わりはしませんでした。

中学生になって多少成績を意識するようにはなったけど、それほど重大なものにはやはり思えませんでした。学年で何位とか誰それより上とか下とか、考えたこともない。

 

ただね、けっこう上でしたけど。

 

だから見ようによっては「余裕」みたいなことになっちゃうのかもしれないけど、私自身は歩いて通える高校に行ければよい、くらいのもんで、別に進学校を目指してたわけではない。ただ、歩いて通える高校がたまたま地域では進学校と呼ばれていただけのこと。私にとっては「進学校」よりも「歩いて通える」ほうがはるかに大事で、ちょいと大げさな言い方をすれば、この頃にはもう「学歴ごときで人生の何が決まるわけでもない」と気づいていました。

 

人並みに受験勉強などして、念願叶って「歩いて通える」進学校に入るわけですが、忘れもしません。入学早々、5月に担任と面談みたいなのがあって、始まるや否や「志望の大学はどこ?」ときたもんです。こいつ正気かと思いつつ「さあ、まだ決めてません」と、私としては至極当然の返答をしたところ、担任のおじいちゃん先生、目をひん剥いて「今の段階で決めてないなんて、遅すぎるだろ!」

 

そのあと何を話したかは何にも憶えてないですが、この時私は自分が根本的に何かが違う「異世界」に足を踏み入れたことを、明確に認識したのでありました。

中学まではなんだかんだ言って小学校の延長ですが、高校となると規模が違うし、四つ五つ離れた駅から電車で来る人もいる。高校というのは初めて身を投じる「世間」とも言えましょう。そして私にとってはそれが「異世界」だった。ほかに異世界要素を挙げればきりがありませんが、学業学歴に限って言えば、その最たるものは教師たちが提唱し、大多数の生徒が無条件に受け入れていた「偏差値に重心を置く生き方」でありましょう。

何を学びたいとか将来何がしたいとか関係ない。とにかく偏差値の高い大学に入ることを是とする。将来云々と言うなら、偏差値の高い有名大学に入りさえすればそれだけで安心安泰、大学の名前だけで一生食えて、人生バラ色間違いなし。

そんな暴論を、いや、もはや暴論にすら達していない、私に言わせれば論と呼べるほどのものでは到底ない与太話を、何の疑いもなく信じて実践する人の、何と多いこと。

 

ただ、こうして振り返ってみても、あの頃の私は冷静だったと思います。もちろんそんな与太話を真に受けたりはしませんでしたが、一方で真に受けている人たちに対して異議を唱えるようなこともしませんでした。己の行く道を偏差値で決めるというならそれも一つの生き方、それもよかろうと。

 

まあ、俺は違うけどね。

なんて悦に入ってる私は、今だに「偏差値」という言葉の意味がよくわかりません。試しに今調べてみましたが、謎は深まるばかり。平均からどれほど離れているかを表す数値なら、0点の奴も高いんじゃないの?

……ええ、こんなもんですよ、私の偏差値への想いは。もう一生関わらんし、たぶん。

 

そんな偏差値の何たるかもわからんような私ですが、高校時代も自分のそれが、こと文系の科目に限ってはかなり高いほうであることは承知しておりました。 なので、私の志望校が、言ってしまえば「低偏差値無名大学」であると表明した時には、教師や同級生、果ては両親までもがこぞって「もったいない」の大合唱と相成ったのであります。

 

もったいない。

……って、何が?

 

私はその頃「将来はゲーム制作に携わりたい」と考えていたので、文系でも多少コンピュータを学べ、かつ家庭の事情を鑑みて自宅から通える大学を志望したのですが、それがたまたま、当世風に言うところの「Fラン大学」であっただけのこと。もったいないと言うなら偏差値に踊らされて何の目的もない大学に四年も通うほうがよっぽどもったいなかろうよ、という私の持論は、しかし周囲からはまったく理解されませんでした。

 

そんな逆風にもめげずに、私は初志を貫いて志望したFラン大学に進学するのでありますが、逆風の快進撃は止まりません。

まずね、大学まで来て人生初の「学級崩壊」を経験するとは思わなんだ。

ええ、見事なものでしたよ。どこの教室、何の講義へ行ってもワイワイガヤガヤ、暮れのアメ横でももう少し静かであろうよという賑わいぶり。最低18歳の人たちが、時に100人近く集まって、そんな光景を作り出していたのです。

これに関しては、のちにバイト先で違う大学の同年代の人たちから聞いたところによると、どこの大学もおおよそ似たような状態にあったようです。少子化によって勃発したFラン大学同士の「お客様」の獲り合いの成れの果て、といったところでありましょうか。時は1996年、出口の見えぬ不況の真っ只中。「就職率」の高さを売りに学生を集めたい大学と、ひたすら「四大卒」の肩書と就職先だけを求める学生の利害の一致が、学問の場に謎の喧噪を生み出した、ということでありましょう。

 

そんな陽気な同級生たちを尻目に、私は私で学ぶべきことを学べばよいと息巻いてはみたものの、私は私できっちり行き詰まります。

プログラマーを目指していたわけではないけど、ゲーム制作に携わるならちょっとはできたほうがいいよね、と思って履修したプログラムの授業が、ちょっともできない。

これはね、正直参りました。もうね、何だろ、決定的にセンスがなかった、としか言いようがない。初級編の初歩がクリアできない。スーパーマリオの最初のクリボーに当たり続ける、みたいなことを延々1年やって、ほぼお情けで単位をもらうのがやっと、という惨憺たる結果に終わりました。

 

その惨状を踏まえて多少の軌道修正は迫られたものの、2年生もそれなりのモチベーションを保って臨んだのですが。

 

当時世間ではまだ「スピリチュアル」という言葉はほとんど使われていませんでしたが、いま改めて振り返ってみると、私が明確に「スピリチュアルな世界に足を踏み入れた」と言えるのは、二十歳になったこの年のことでした。決定的なきっかけとなったのが、この年、1997年に公開された映画『もののけ姫』でありました。札幌の狸小路に当時あった映画館で、立ち見であることも忘れるほどの衝撃を受けた二十歳の私は、その日から大いに「悩む」ことになります。

何にどう悩んだかを詳しく書き始めると全3巻の本になってしまうのでここでは割愛しますが、自分で自分の存在意義を問い詰めるようなことを始めてしまったのは確かなことで、何かを表現したいという意志は持ち続けていたものの、同時にそれはゲームという形では成し得ないのではなかろうか、という疑問を抱くに至ったのでありました。

 

かくして大学進学二年目、二十歳にして人生の樹海に突入した私の運命やいかに?

長くなりましたので、続きは次回といたしましょう。ここまでノープランで書いて、まだ着地点が見えません。このブログも、樹海に突入だ!!

 

 

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