3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第9次元  なんちゃって修行僧、娑婆(しゃば)を放浪す。

とにかく歩くのが好きで、軽い散歩で1時間なんてのは朝飯前、気付けば5、6時間歩きっぱなしなんてこともままあります。

歩く場所はさまざま。近所の川原をそぞろ歩くこともあれば、ちょっと遠くの有名なお寺まで、さらには旅に出て知る人ぞ知る神社仏閣を巡り歩いたり。あるいは趣向を変えて山手線一周踏破したこともあれば、江戸の名残を求めて都心をぶらぶら、酒なんか一滴も飲まないのに夜の飲み屋街をぶらぶら、とまさに風の向くまま気の向くまま、なんなら軽めの放浪癖と言って差し支えない程度の症状を自覚しております。

 

旅に出る時などは、絶対に行きたいところには確実に行けるようにそれなりの計画を立てたりは当然しますが、その計画はやはり歩くことを前提に立てられます。もはや旅の目的が「歩くこと」であると言っても過言ではありません。

またその計画が緩ければ緩いほど自由度、もしくは放浪可能度が高くなるので、水を得た魚と言わんばかり、存分に放浪してやるのですが、調子に乗って後悔することもしばしば。宵闇迫る京都の鞍馬山を、魔王殿、さらには貴船へ抜けるべく一人歩いた時などは、ひたすらに己の愚かさを嘆いたものでした。ええ、怖かったですよ、それはもう。3時間くらいずーっと怖かった。やめればよかったと何度思ったことか。

まあそのおかげで、あの日、あの時間に貴船に着いたからこそ、蛍を見ることもできたんですけどね。七夕の夜の貴船神社ともども忘れ得ぬ光景でありますし、それもこれも全部込みで楽しい。いやあ放浪って、本当にいいものですね。お勧めはしませんけど。

 

師匠のもとに通い始めてまだ間もないある日、サロンで開かれた学びの集いの場で「存分に豊かに、存分に自由になった暁には、その無限の富を使って過酷な放浪の旅に出て、どれだけしんどい目に遭えるかというところを存分に楽しみたい」といった趣旨のことを発言したことがありました。無論それは私の本心であるし、スピリチュアルな性向をお持ちの方々であればある程度ご理解もいただけようと思って何の気なしに申し上げたのであります。

 

が。

 

十数人の仲間たちのざわめきと、師匠の困惑ぶりから、私は悟るのです。

 

――あ、何か、違ったみたい。

 

「え、ごめん、ちょっとわかんないんだけど、どういうこと?」

師匠が戸惑いつつ説明を促すのですが、私は私で戸惑うのであります。

――こんなに、仲間が十何人もいて、こんなにも賛同を得られないことってあるかねえ。

 

師匠のご要望にお応えして説明することは決してやぶさかではないのですが、説明したところで誰も納得しないことはすでに確定済み。この上なくわかりやすい負け戦に、私は臨むのであります。

 

「ええ、実はあえて過酷な旅に挑むのが僕の趣味でして……。楽しいすよ」

 

かくして負け戦にきっちり負けきった私は、それを機に「修行好き」ですっかりおなじみになってしまったのでありますが、これに関してはまんざら冗談でもなく、過去世でいわゆる「修行僧」だったことが、私にはやはりあるそうです。私自身もうっすら自覚するところがあったので、それを聞いた時は妙に合点がいったものでした。あくまで山ほどある過去世の一つに過ぎないのですが、その中でも今生に特に強く反映されるものがあるようで、実際私も「3次元の物質主義世界の、この生きづらさよ」とは常々思うところでありました。

私などは組織のしがらみみたいなものの中でごちゃごちゃやるよりは一人で5時間歩くほうが百倍楽、なんて思うのでありますが、一方で今住んでいる部屋を借りる時に不動産屋さんから「駅から徒歩20分“も”ありますけど、ほんとにいいんですか?」とかなり強めに念を押された、なんてこともありました。徒歩20分をさほどに由々しき事と思う人から見れば、徒歩5時間などもはや苦行以外の何物でもないのでありましょうか。先述の負け戦、四面楚歌を軽く超える「全面楚歌」の経験を鑑みても、私のような者は少数派、「どちらかと言えば奇人変人寄り」くらいのカテゴリーに入るのかもしれません。

 

しかしながら、これをもって私が人とは違う特殊な存在であるとか、幾多の苦行を乗り越えてきた強い人間であるなどとは、間違っても申しません。

 

修験道の言葉に「山の行(ぎょう)」「里の行」というものがあります。山の行とは人里離れた山中で瞑想したり滝に打たれたりする修行、里の行とは人間社会における日常生活から学ぶこと。簡単に言うとそんなところでしょうか。

で、改めて調べてみると、多くの場合「山の行より里の行」という言い回しが使われています。里の行のほうが上位に置かれ、重要視されているわけです。まあ実際のところはどちらが優位とかではなく、バランスよく両立すべしということなのでしょうが、いずれにしろ修験者は一人山に籠って修行さえしていればよいわけではなく、その成果を娑婆(しゃば)で役立てることもまた修行である、ということのようです。

 

――組織のしがらみみたいなものの中でごちゃごちゃやるよりは一人で5時間歩くほうが百倍楽。

――3次元の物質主義世界の、この生きづらさよ。

――ええ、実はあえて過酷な旅に挑むのが僕の趣味でして……。楽しいすよ。

――いやあ放浪って、本当にいいものですね。

――軽めの放浪癖。

 

不適切な表現が多数ございましたことを深くお詫び申し上げます。すいやせんした。

 

決して娑婆を疎かにしてきたつもりはないのですが、得手不得手で言えば間違いなく不得手で、こればかりは致し方なきこと。要領よく世渡りなんぞできていれば、3次元の物質主義世界でよろしくやっていたはずです。

とは言え娑婆、社会での暮らしを、不得手なりに大事にしてきたかと問われれば、自信を持って「はい」とは、やはり返せない。かつてブラック工場に勤めていた時などは特に、自分と会社との間にはっきりと境界線を引いて分断していました。最低限やるべきことをやって決まった時間までいれば決まった額のお金がもらえる、それ以上でも以下でもない場所。職場というものをそう定義して割り切ることで自分を保ち、たまに山の中でも街の中でも、誰の干渉も受けることなく一人延々と何時間も歩き続けることで、すり減った心を回復していた。ちょいと意地悪な言い方をすれば「山の行に逃げていた」ということにもなりましょう。里の行より山の行のほうが、私にとってははるかに楽しくて有意義で、何より楽だったのです。

 

ただ、私は後悔も反省もしません。当時の私が間違っていたわけでは、決してないのです。

今こうして多少なりともスピリチュアリズムを学び、実践する身として振り返ってみると、いつ闇に身を落としてもおかしくないような環境でよく踏みとどまったなと思うし、そんな中で少しでも楽しく生きようという気概を失わなかったことも、大いに評価してようございましょう。すべて私にとって必要な経験、必要な学びだったということを受け入れ、同時にもうその学びは要らないよ、ということをしっかりと意図して、新たな学び、楽しみを求めていく所存であります。

 

と言って別に、金輪際山には入らないとか、今後2時間以上の徒歩は禁止、とかではないですよ。相変わらず歩くのは好きだし、現に師匠が引くほど歩いてます。

ただ、自分にとっての「里の行」とは何か、ということを、これからは強く意図して探っていこうと思っています。こうして過去を解釈し直すことで今が変わり、未来が変わる。そんな経験をこれからもお届けできればと思っております。

 

というわけで、己を見つめ直し、なすべき「里の行」を見つけるべく、私は山に籠ります。滝に打たれます。

 

……え、だめ?