3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第10次元  塵も積もればアセンション!?――小ネタ盛り合わせ一丁。

2020年の7月、「体力の限界」ならぬ「魂魄の限界!」を迎え、這(ほ)う這うの体(てい)で師匠のサロンを訪ねてから10か月近くが経ちました。その間起きたことや気付いたことをこの場に綴って参ったわけでありますが、ここで改めて振り返り、ひとネタに練り上げるにはちょいと小さいけど捨てるには惜しい事柄をまとめて、頑張ってひとネタ仕上げてみることにしました。消しゴムのカスを必死に集めてまとめてこねくり回して「ほら見てねりケシできた!」と言い張った幼きあの日に思いを馳せつつお付き合いいただければ幸いであります。

 

最初の変化はヒーラー修行を始めて間もない8月ごろ。師匠の勧めで水をたくさん飲むようにしていたのですが、ある時から水道水をそのまま飲むことに抵抗を感じるようになりました。まずい、というほどでもないけど、何というか、きつい。

事あるごとに人が言い、しかし私自身は40年生きて一度たりとも感じなかった、これが「カルキ臭」というものか……!

と感動もそこそこに、何か策を講じねばとフィルター付き水筒の導入に至った次第でありますが、それまで別に水なんぞうまいともまずいとも思わなかったこの私が、お金使ってまでよりおいしい水を求める日が来ようとは、夢にも思いませんでした。

というわけで第一の変化は「違いのわかる男になった」でした。

 

次の変化は正確にいつだったか憶えていないのですが、おそらく「違いのわかる男」に昇格したのち、9月辺りではなかったかと思います。

ある日学びのためにサロンを訪れると、先にいた同志のうちの幾人かから、「なんか前回と全然違うね、別人みたい。一瞬誰が入ってきたのかとびっくりしたよ」と驚かれました。無論、それ以上に驚いたのは私のほうで、一体何のことやら、髪切ったわけでも顔イジったわけでもないのに別人みたいとはこれ如何に、とずいぶん怪訝そうな表情を出してしまったのでありましょう。すぐに補足説明を入れてくれました。曰く「エネルギーの質が一変した」とのこと。

自分ではまったくわからなかったのですが、ともに学ぶ仲間が、さらには師匠までもが言ってくれたことだから、私はそれを信じます。己でも気付かぬうちに、私は変わっていたのです。

これが第二の変化「手術なしで別人になった」です。

 

そしてある意味その裏付けとも言える出来事が、その後間もなく起きるのであります。

ある夜、眠りからふと目が覚めました。3時ごろだったでしょうか。当然ながらまた眠ろうとするのですが、じわり、じわりと、それは始まったのでありました。

下半身が痺れ出すのです。痺れは次第に強くなり、やがて足先までが大きな脈動に包まれました。

よほど変な格好で寝ていたのだろうかと初めは思ったのですが、その痺れがどうも普通ではない、というか、そもそも痺れてはいない、と気付いたのです。痺れたような感覚があるけど、実際に痺れているわけではない。例えば30分正座したあとの、あの痛いようなくすぐったいような感覚が一切ない、言わば苦痛を何一つ伴わない痺れ、そしてそれがきれいに腰から下だけに表れるという、まったくもって不可思議なものでした。

その不可思議な痺れを半ば楽しむように味わいながら、半分寝たままの頭で私は直感するのであります。

 

――あ、エネルギー的な何かが起きてる。

 

何がどうとか詳しくはわかんないけど、とにかく今、私の下半身で、エネルギー的な何かが起きている。夜中の3時に、私の下半身で、エネルギー的な何かが起きている。

そう理解してからほどなくして痺れの感覚は消えていき、エネルギー的な何かは終息し、私はまた眠りにつき、翌朝何事もなく目覚めたのでありました。

 

が、これで終わりではありません。それから約一か月後、私はこの「エネルギー的な何か」を再び経験することになります。それも、全身バージョンで。

 

やはり夜中に目が覚めてじわじわと痺れが広がり、やがて首から下の全身がぼわんぼわんと脈打つ感覚に覆われたのであります。

 

――おーまた出たかエネルギー的な何か、しかも今度は全身かよ。

と暢気につっこみつつ、試しに両手首同士をとーん、とぶつけ合わせてみると、ばいーん、と痺れが波になって全身を駆け巡っていきます。衝撃は少し感じるけど、痛みはありません。

こりゃいいや、とつい面白くなって、とーん、ばいーん、おおっ、とーん、ばいーん、あうっ、と無益な戯れにかまけるうちに、エネルギー的な何かは終息し、私はまた眠りにつくのでありました。

 

結局何なのかよくわかんなかったし、それを機に特殊な能力に目覚めたわけでも何でもないけど、先述のように人から「エネルギーが変わった」と言われた直後ということもあり、何かしらスピリチュアルな体験ではあったのだろうと自分では解釈しています。

以上が第三の変化、というより不思議体験「エネルギー的な何か×2」でした。

 

今日のところはこれくらいで終わってもいいかな……。

え、もう一声? しょうがないなあ。じゃあもう一個くらいいってみましょうか。実感、自覚という点においては、もしかしたらこれが一番大きな変化かもしれません。それは。

 

大都会にあまりときめかなくなった。

 

いつからともなく、また特にきっかけがあったわけでもないのですが、都心に遊びに行く回数が明らかに減りました。もちろんこのご時世というのもありますが、じゃあ行きたいけど我慢してたのかというとそうでもない。行きたいと思うこと自体が減ったのです。

この変化に関しては、一時的なものである可能性も十分考えられます。前回も申し上げたように、大した用もないのに街を延々ぶらつくことは、今も、今後も、私にとって第一級のエンターテインメントであり続けることでありましょうし、私自身、街ぶらを引退しようなどと考えたことはただの一度もありません。ただ昨年、2020年の末辺りに、ふと「そういえば最近アキバ行ってないなあ」と思った時に、街ぶらに対する熱量がちょっと少なくなっていることに気付いたのです。かつては「俺の庭」と言わんばかりに闊歩した秋葉原から上野にかけての繁華街から少し心が離れていて、かつそのことに対して特に寂しさみたいなものも感じていなかったのです。

私は都会の喧噪、なんなら猥雑と言ってもいいような街をわりと好んで歩きます。小綺麗なビル街の裏にひっそりと、昭和からやってるような店が軒を連ねる通りの風情に浸るのが本来好きなはずなのですが、今はそういう場所から少し距離を置いて、己の内なる声にじっくりと耳を傾けるべき時なのかもしれません。まあ、単純にそういう場所を歩きすぎてちょっと飽きただけかもしんないすけど。

これが第四の変化「秋葉原―上野間の往復歩行回数が一生分に到達(推定)した」です。

 

このような諸々の変化について、師匠は「すべて必要だから起きていること」であると言います。霊性進化の過程で、それまで必要だったものが必要なくなり、好きだったものがそうでもなくなるといったことは往々にして起こるので、それらは恐れずに受け入れるべし、と。

それは時に勇気の要ることでありましょうが、別に受け入れたところでそれまでのすべてが無に帰すわけでもありますまい。またアキバに行きたくなったら行けばいいだけの話、一度心が離れたものには二度と手を出してはならぬ、なんて掟も別にないし。その時々の「今」を大事にし、その時々のハートの声に従う。

心情や感覚に生じた変化は、進化の兆しを告げるハートからの信号なのかもしれません。

 

といったところでちょうどいい、だいたいいつもの一本分の尺になりました。小ネタを集めてこねて、こんな立派なねりケシになりました。こいつを指でむにゅむにゅしたり、鉛筆を麺棒みたいにぐりぐり転がしてびとーっと延ばしたりするわけでござんすな。

 

もちろん、授業中に。