3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第11次元  風の時代――心ちょい軽、財布ちょい重♪

ちょっと前の話になりますが、2020年の暮れに、スピリチュアル界隈で話題になった言葉がありました。正直言って私は直前に師匠から聞くまでまったく知らなかったのですが、知ってる人はもっと前から知ってたようです。

 

風の時代。

 

西洋占星術における、約200年ごとに訪れる転換期で、これを境に時代の様相が変化する、まさにパラダイムシフトが起こるそうで、昨年末がその幕開け、新時代の始まりだったそうです。

 

詳しいことは詳しい人が言ったり書いたりしてるので各々「このブログを読み終わってから」ググるなり何なりしていただければと思いますが、ごく簡単に申し上げると、がっつり物質主義、モノでもカネでもとにかくたくさん持つことを是とする「土の時代」が終わり、所有という概念に固執せず、軽やかに、自由に生きる「風の時代」が始まった、ということのようです。この2020年末というのは奇しくも第3次元でお話しした、パワーストーンのブレスレットが消えた時期でもあります。かのブレスレットも私の所有を離れ、風に乗って今頃どこぞで自由を謳歌しているのでありましょうか。1万したのに。

 

それより少し遡って、11月の初旬ごろからだったでしょうか、私の中にある感情が沸き起こりました。

 

――モノ減らしたい。

 

別に増えたわけでもないのに、何か多い気がする。ちょっと部屋が狭く感じるほど、余計な物が詰まってる気がする。そもそもこの部屋に越してきた時に、持ってきた物が多すぎたのだろうか。

越してきていい加減3年も経とうかという段になってそんなこと言い出すのもいかがなものかという話でありますが、気づいてしまっては仕方ない、何とかせねば。

 

ただやはり解せぬのは、なぜ今になって? ということ。なぜ今この時期、無性に部屋が狭いと感じ、物を手放したくなったのか。その原因を、ここで改めて検証してみましょう。

 

①シンプルに部屋が狭い

あたぼうよ、六畳ワンルームが広いわきゃあねえといういわゆるそもそも論ですが、最近急に六畳になったはずもなく、私の入居以来、というかこのアパートの竣工以来、部屋の容積という絶対値は変わっていないはず。

 

②自分が大きい

ならば比率の問題か。180センチ75キロ。まあ確かに大きい部類ではある。同じ六畳間なら当然160センチ50キロの人よりは手狭に感じるのでしょうが、これとて今に始まったものではなく、部屋が狭くなったと感じるほど太ったわけでも、ましてやいい加減四十も過ぎて背が伸びたわけもない。

 

③お金がない

部屋が狭いとか物が多いとかすべて幻覚。そういう体(てい)にしておいて、実は潜在意識レベルで「売るものぁ~ねえか~」と部屋じゅうを物色していたのではなかろうか。実際この時私は「一人財政危機」の只中にあり、そういう境遇にあると部屋の中のありとあらゆる物が「別になくてもいい物」に見えてきたりする。「別になくてもいい物」→「ないほうがいい物」→「今すぐ手放すべき物」→「どうせなら換金すべき物」→「そうだ、ブッ◯オフへ行こう!」

 

④風の時代の到来

べ、別に、金がなくて売れそうな物を血眼になって探してるわけじゃないぞ。所有の概念を離れ、余計な物を手放して軽やかに生きる「風の時代」が来ちゃうんだから、しょうがないぢゃーん。

 

このような検証から、非常に論理的に、原因は④であることが証明されました。そう、④です。④であれば、①から③までをも包括的に隠蔽説明できるんだから、④です。誰が何と言おうと④!

 

ただ実際のところこの時まだ私は「風の時代」なる言葉に出会っていなかったので、④も正確には「風の時代とか知らないけど無意識にその流れに乗っていた」ということになるのですが、それはそれで何というか、逆にすごい。いや、知らん時点ですごくないか。

 

それはともかく、あの時期私は自分の部屋の中に何とも言えぬ重苦しさ、スピリチュアルな表現をするなら「波動の重さ」を感じ始めていたのは事実で、それまで同じ部屋で過ごしていて感じなかったものを急に感じるようになったのだから、やはり私の意識に何かしらスピリチュアルな変化が起きたことは間違いなかろうと思うのであります。

 

そうとわかればあとは実行あるのみ。いらないと思う物を片っ端からかき集め、少しでも高く売ろう波動を軽くしようと躍起になるわけですが、この過程で同時に、私の意識の中にあるいらない物も、じわじわと炙り出されてくるのであります。

 

まずは本を吟味。これに関しては予想をはるかに上回る数が「いらない」に分別されました。当然ながらその大半は、己の手で3年前にせっせとダンボールに詰めて今の部屋に持ってきたもの。

同じものを同じ人が見て、3年前は「いる」と思い、今は「いらない」と思う。とすれば変わったのは見た人、すなわち私の意識ということになりましょう。

 

私はいわゆるコレクションにはあまり興味がないのですが、本に関してはもしかしたらそれに近い感覚を持っていたのではなかろうか、と思い至ったのであります。

例えば展覧会、「古代エジプト文明展」みたいなので買った図録。もちろん欲しくて買ったし、一通り目も通したけど、専門家でも研究家でもない私の生活においては、ほとんど出番がない。類似の情報ならネットで得ることもできましょう。あるいは心のどこかに「こういうの持ってる俺」に満足したい、こういうの部屋に置いて教養人ぶりたい、という意識があったのかもしれません。

まあ何にしてもこんな大判の分厚い本が六畳間に十数冊はやっぱ重すぎ、というわけで、あの吉村作治先生から直々にサインをいただいたものなどを除いて、ほぼすべて手放すことにいたしました。ほかの本も同様、バシバシ手放します。

 

さあこの調子でどんどん行きますよぉ。お次はCD

これについては、ちょいと難しい決断を迫られました。

 

大好き「だった」アーティストのCD。ご本人たちは何も悪くないんだけど、正直ちょっと残念な形での幕引きとなり、以来2年ほど、私の心も宙ぶらりんのまま。思い出すと悲しくなるから聴くに聴けず、さりとて手放すというのもまた何とも寂しい。棚にずらりと並んだこれらのCDをふと目にする度、「クリスマスの渋谷であの美しいハーモニーに酔いしれることは、もう生涯ないのかなあ」と溜息をついたりしていたのですが。

いつかまた会える日を信じて、ここで一度、お別れすることにしました。いつの日か再び3人の声が重なり、光の旋律の紡がれんことを、今はただ祈るのみであります。

 

さて次はお洋服。

これはねえ、あんま減らんかった。

元々気に入ったものを長く着たいと思って買うので、長持ちするのは大変ありがたいのですが、こういう言い方もなんだけど、長持ちし過ぎ。成人以来私の体形がほとんど変わっていないのも相まって、20年くらい前に買ったジャケットなんかがまだ現役バリバリだったりするのであります。気に入って買ってまだ着られるものを二束三文で手放すのも何かやだし、捨てるなんぞもってのほか。流行やブランドで選んだりもしないので、「去年のやつとか恥ずくてもう着れん」なんてこともありません。というわけでここは軽めに、汚れの目立つものを処分する程度にとどめました。

 

とまあこんな感じであれこれ処分して、ついでに心にくすぶるあれこれも処分して、部屋も心もすっきり。その上けっこういいお小遣いもゲットし、私は無事年を越すことができたのでありました。めでたしめでたし。

 

ただ。

これは言わば「予兆」に過ぎなかったのです、今にして思えば。

まさかまさか、それからあんなことやこんなことになろうとは……!