3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第17次元  焼くべきか煮るべきか、それが問題だ――どっちでもいい症候群。

 

先日師匠のサロンで行われた学びの会の中で、自分には「どっちでもいい」と思う場面が多いということに気づきました。無論、どっちでもよくない時はその旨発表はするのですが、そういう機会は3割、多く見ても4割くらい。あとの割くらいはどっちでも、あるいはどうでもいい、すなわち「あまり興味がないこと」であると言えましょう。「どうでもいい」といっても別に捨て鉢とかではなく、ここでは「どうであってもOK!」というような意味合いであるとご理解ください。

 

さて、7割ある「どっちでもいい」の中でも最たるものが、私にとっては食事であります。第7次元でも申し上げた通り、私は栄養補給の観点以外、食というものにあまり関心がありません。おいしいものに対する積極性が薄い、といってまずくてもいいやと思っているわけでもない。つまるところ「この世のだいたいのものがまあまあうまい」と感じる私の特殊能力が常時発動しているため、あえておいしいものを求める理由もなく、またそもそもまずいものにほとんど遭遇できない、というのが事実であります。実際この四十余年の人生の中で、私の舌が明確に「まずい」と識別したものといえば、小学校上がりたての頃に給食で出された「大きめ野菜の生煮えカレー」くらいのもんです。

 

一人暮らしの時には「原始御膳」レシピは第7次元参照ほぼ一択でもそれなりに満足していましたが、今は母親が作ってくれるものをいただいており、食生活はありがたいことに大幅にレベルアップした、というか一人暮らしによって大幅にレベルダウンしたものが元に戻りました。

ただ、やはり作る側からすれば毎日考えるのは大変なようで、かつて実家で暮らしていた時の恒例のやりとりもまた戻ってまいりました。

 

「何か食べたいものある?」

「……いや、別に。何でもよろし」

 

我が人生においてすでに7万回は繰り返されたであろうこの会話。巷では「何でもいいとか言っといてさ、いざ出してみればあーだこーだやいのやいの、だから困るのよねえ」というマダムたちの嘆きの声も聞かれるようですが、私はそんなケチな真似は断じてしません。心の底から何でもいいと思っているから「何でもよろし」と答えるのであって、例えば夕飯の食卓にカップ麺が乗っていたなら私は黙ってお湯を注ぐし、冷凍チャーハンの袋が乗っていれば黙ってチンする。それが筋というものでありましょう。

ありがたいことに今のところそのような事態が起きたことはありませんが、仮に起きたとしても、別に「おふくろの奴明らかに何か仕掛けてきてるけど、何でもいいっつっちゃったしなあ」みたいなしぶしぶ感も持たないと思いますよ、私は。「今日の夕飯はカップ麺である」という事実に、良くも悪くも心を動かされるイメージが湧かない。せいぜい「お、珍しいこともあるもんだねえ」くらいのもんでしょう。「博多とんこつと札幌みそ、どっちがいい?」という質問にすら、私は「どっちでもいい」と答えてしまうに違いない。まあ、さすがに毎日となると栄養補給の観点からもあまりよろしくないので何とかするんでしょうけど。

 

食事に関しては万事がこんな調子でありますから、たまに「サバ買ってきたんだけど、焼くのと煮るのとどっちがいい?」なんていう深淵なる問いを投げかけられると、私の頭脳はフリーズしてしまいます。さもありなん。食材の希望がないのに、調理方法の希望なんかあるわけないじゃん。「うわー焼いちゃったのかよ何してくれてんだよ」とか「うーん今日は煮ないでほしかったなあ」とか、俺が一度でも言ったことがあるかい? と思いつつ、いつものように「どっちでもよろし」と答えるのみ。焼いたって煮たって、サバはうまい。それが私にとっての真実なのであります。

 

焼くか煮るかなんて聞かれたって困っちゃうんすよねえあはは、なんて軽い気持ちで口走った私に対する師匠の返答は、私にとってはちょっと意外なものでした。曰く。

それは「選択の放棄」である、と。

 

うん、まあ確かに言われてみればそうかもしれない。けど、私は私で思うところがあります。

「でもね師匠、僕は本当に、心底どっちでもいいと思ってるから、素直にそう答えてるんすよ」

「でもね」と師匠。「本当はどっちでもいいと思ってないこと、自分で気づいてる?」

「……え?」

「ちょっとの差かもしれないけど、本当はどっちかがいいと思ってる自分を、感じ取ろうとしたことある?」

「……うぬぬ」

確かに。「焼く煮る問題」に限らず、メシに関する選択肢に対して、半ば条件反射的に「どっちでもよろし」と答えてしまっていた節があることは否めない。仮に「どっちでもよろし」と答えるなら、それは己にとことん問うて、しっかりじっくり感じ取った結果がどうしても50対50にしかならない場合にのみ致し方なく、ということになりましょう。が、実際のところそこまで頑張って違いや差を感じ取ろうとしたことがあるかと言われればそれはもう、掛け値なしで一回もない。

よくよく吟味すれば51対49で「焼き」に軍配が上がるものを、ろくすっぽ考えもせずに「どっちでもよろし」などと流していたのだとしたら、私はその2点の差を無視して生きてきたことになります。そして先述のとおり、この類のやりとりはこれまでに7万回あったので、通算で14万点、いや、3点以上開くことも多々あったろうし、メシ問題以外の選択機会も当然あったわけだから、少なく見ても倍、下手をすれば50万点以上の差を「ないもの」としてきた可能性すらあるのです。

 

「小さいことを気にしない」と言えばおおらかで聞こえがいい気がしなくもありません。が、選択の連続で成り立つ人生において、これほどの失点を選択の放棄、選択の「失敗」ではなく「放棄」によって重ねてきた人間が、思い通りに生きられないのは当たり前の話。そもそも選択しない、意図しない人生に、思い通りも何もないのです。

 

「あなた欲がないからねえ」と、いつか師匠に言われたことがあります。前回申し上げたように、物質主義的、あるいは権威主義的な欲は確かに薄いほうであるという自覚はあるにせよ、決して無欲なわけではありません。それなりに欲しいものややりたいことなどあるわけですが、じゃあそれら、すなわち「どっちでもよくない、どうでもよくない」ものはすべて思い通りに手に入れてきたのかといわれれば、まったくもってそんなことはない。そしてそれら叶わなかった願望については「まあしょうがねえか」くらいで淡々と済ませ、その過程で自分が何をどう意図してそうなったのかを振り返ることもなく流してきたという事実も、きっちりあるわけです。

そう考えると、私は「どっちでもよくない」ことに対してすら、実は選択を放棄してきた、意図を働かせてこなかったのではないか。そんな疑問に至るのであります。

 

この辺り、正直なところまだよくわかりません。今の私に「真に正しい意図、正しい選択」の何たるかがわからない以上、これまでの意図や選択が正しかったのか否かを検証する術はありません。

ただ一つ、ヒントになりそうなのが第4次元に記したこと。

 

私風情がこの一生で手にできるものは所詮限られていて、何かを選択できるとすればそのごくごく狭い範囲内だけの話。

そんな決めつけ、思い込み、あるいは自己弁護、自己防衛によって、何かを望むこと、求めることの空しさから目を背けてきた、ありものやおこぼれで満足したふりをしてきた過去の私の意図も、やはり限られた、いや、むしろ自ら「限った」ものだったのではなかろうか。

無論、ありものやおこぼれに満足してはいけないと言っているわけではありません。それはそれとしてありがたく頂戴しましょう。その上で、その時その時、自分が本当に欲しいもの、したいことに対して常に意識を向けて、しっかり意図を働かせねばならない、ということでありましょう。

過去のうまくいかなかったことに意識を向けたままでは、これからも当然うまくいかない。その辺りに関してはそろそろ、踏ん切りをつけねばなりますまい。

 

さて、思えば「焼く煮る問題」からずいぶん遠いところに来てしまったような気もいたしますが、しかしながらそんな些細な選択の積み重ねが今の私の現実を作り上げているとなれば、なかなか馬鹿にできない、まして放棄するなどもってのほか、ということを私は学んだわけであります。

とはいえ、今後の私に「今日だけは絶対に焼いてほしい!」とか思う日が来るのか。でなければ、ほんのわずかな差を感じ取るためにいちいち長考に入らねばならんのか。悩ましいところであります。いっそ「3秒以内に答えなければ家が爆発する」くらいのバーチャルルールでも設けてみようか。その緊張感が吉と出るか凶と出るかについては、結果が出次第報告いたします。いつになるかわかんないすけどね。

 

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