3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第5次元  憧れの罠、編集の妙。

物語の基本構造というものを学問的に分析すると、究極的に二つの要素に集約されるそうです。

 

1.行って帰る

2.欠けを埋める

 

特定の作品を具体例にして解説するとそれだけで今日の分終わっちゃうので、軽めに行きます。各々好きな漫画なり映画なりに当てはめてみてください。

1は今いる場所を離れて、目的を果たし、かつ何かしらの成果を得て帰ってくる、という要素。『桃太郎』ですね。

2は何かしらのハンデを背負った主人公が、冒険の途上、あるいは冒険の結果それを克服する、という要素。こちらは『一寸法師』でしょうか。

 

もちろん、どちらの要素も物理的に描かれるばかりではありません。心理的に遠いところ、精神的なハンデ、それらを織り込んだ「心の冒険譚」となることもありましょう。

これらの要素を多面的、重層的に構成することで一つの物語が出来上がるわけですが、何にしろ主人公は行って帰り、欠けを埋めた結果、行く前とは別人になっています。それが「成長」であり、冒険を達成し成長した主人公はそれを境に、新たな人生を歩み始めます。

 

そんな主人公に、読み手や観客が自分を投影することで「感動」が生まれます。自分の人生、境遇になぞらえて共感したり、自分には到底できないことに挑む姿に憧れを抱いたりするわけです。皆様だってそうでございましょう。人というものは任侠映画を観れば肩で風を切り、ビジネスドラマを観れば意味もなく倍返しがしたくなるもの。頑張ればいつの日かペガサス流星拳やかめはめ波が出るものだと本気で思ってしまう、悲しい生き物なのです。

 

それはさておき、物語の中で描かれるような出来事は、我々の人生においてはほとんど起こりません。逆説的に言えば、だからこそ人は物語を求める、ということでしょう。これは何も異世界冒険ファンタジーに限ったことではありません。バスケットボールを題材にした漫画に憧れてバスケ部に入っても、主人公と同じ体験はできません。それとは違う形で有意義な体験ができたとしても、憧れの物語の主人公そのものになることは、やはり誰にもできないのです。

 

あの漫画の、あのドラマの、あの主人公みたいにはなれない。それを悟った時、わかってはいてもちょっと寂しくなったりするものです。まあこれが現実だよねと受け入れるほかないのですが、比較対象がフィクションならばそれもさほど難しいことではありますまい。

 

じゃあ、これがノンフィクションなら? 実在の人物なら?

そう考えると、「伝記」や「自伝」などは、実は大きな落とし穴になり得ることがわかってきます。そして落とし穴の深さは、その人物に対する憧れの強さに比例します。

 

書物にしろ映像にしろ、伝記や自伝、ノンフィクションと名の付く作品に描かれているものはすべて実際にあった出来事、事実である。一応それを前提としておきましょう。

ただ、事実のすべてではない。

 

もちろんページ数や時間、いわゆる「尺」という単純な問題もあります。が、もう一つ。これも考えてみれば当然のことですが、制作者は意図を持って制作しています。早い話、売れるものにしたい。そのためには、多くの人の共感を呼び、憧れの的になるような人物像を描かねばなりません。

 

とある漫画雑誌は、売れる漫画に必要な要素として「友情・努力・勝利」の三つを挙げているそうです。

 

いかがでしょう。この三つに、冒頭に挙げた二つも加味して、皆様がこれまでに読んだり観たりしてきた伝記や自伝を重ねてみると……。

 

もちろん、すべてが絶対にそうだとは申しませんし、それが悪いとも申しません。

自伝や伝記は、主題となる人物の人生を編集して作り出された「物語」なのです。

 

難題に立ち向かい、達成のために努力を惜しまず、逆境やハンデを克服し、挫けそうな時には助けてくれる仲間がいて、長い長い試練の旅路を経て、ついに栄光の勝利を手にする。

 

このパターンは人生をドラマティックに描く上で、とても便利なのです。

一方で、これにそぐわないエピソードはカットされます。野口英世の借金まみれの放蕩三昧、エジソンの電流による動物虐待、当然カットです。子供には見せられません!

同じ構図は、今活躍しているアスリートやアーティスト、実業家などの自伝にもあるはずです。そらそうだよね、別に犯罪とかじゃなくても絶対人に言えないこと言いたくないことの十や二十、ないわきゃないすよ、人間だもの。

 

繰り返しになりますが、それが悪いと言っているわけではありません。ノンフィクションを批判するわけでも、有名人なんて虚像だ、とか言うわけでもありません。

ただ、どれだけ憧れの人を追いかけたとしても、我々が知り得るその人の姿は編集されたものでしかないのです。憧れの、尊敬するあの人のように生きたいとどれほど頑張ったところで、生まれた時、場所、家庭環境、容姿、体形、その他何から何まで違う上、都合よく編集された姿しか知り得ないのだから土台無理な話。編集によって作り出された「憧れの人の人生」という物語の主人公に自分がなろうとすることは、言ってしまえばかめはめ波出そうとしてんのと大差ないんです。「生まれが貧乏だったからハングリー精神で成功できた」という人のような人生を歩みたいと思った時、生まれが貧乏じゃなかったらもうアウト。もっと言えば「貧乏だから成功できた」というのはあくまで本人の自己分析で、本当に成功の原因が貧乏にあったかどうかなんて立証のしようがない。よって仮に自ら貧乏になったところで、その人と同じように成功するとは限らない。たいがい貧乏なり損で終わりじゃないすかね。

 

私は今ようやく、自分の人生の「理想の物語」を捨てられるようになりつつあるところです。この流れでお名前を出すと何か「悪い例」みたいに思われてしまいそうなので出しませんが、この人みたいな生き方をしたい、と思う人が私にも幾人かいました。

苦難を乗り越え、逆境を跳ね返した末に勝利を、幸福を掴み取る。自分の人生にそんなストーリーを描いている人には、苦難と逆境しか来ないのだそうです。ええ、実感してますよ。もうね、どれくらいの苦難に打ち勝てばかっこいいのかとかわかんないからきりがないし、わかったところでそんなさじ加減できないし。

一方で、師匠から「その憧れの人の何十倍も楽に、簡単に、あなたは成功していいんだよ」と言われた時に、「はい」と素直に言えない自分がまだまだいたりもします。ほんとにそれで嬉しいかな、とか思ってしまうところが3.5次元のいじらしさ、か……?

 

ただ、これから私は自分の人生の主人公たることを選びます。ほかの誰かの物語になぞらえることも、他人の人生の主人公たらんとすることも、今後一切いたさぬことを誓います。

 

男四十三歳。

かめはめ波は、あきらめました。