3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第4次元  座右の銘(笑)――ずいぶんといじけなすったねえおめえさん。

40年も生きていると、特段読書家でなくともそれなりの数の書物に出会い、またその中に含蓄ある言葉を見つけたりすることもあります。時にそれらは「座右の銘」として、人生の指針になることもありましょう。

恥ずかしながら私にもいくつかございまして、今回はそれをご紹介いたそうかと思います。

 

生ける者 ついにも死ぬる ものにあれば 

この世なる間は 楽しくをあらな

 

大伴旅人(おおとものたびと)という、飛鳥・奈良時代の貴族・歌人の詠んだ和歌で、『万葉集』に収録されたものです。『万葉集』と言えば「初春の令月にして気淑(よ)く風和(やわら)ぐ」、すなわち「令和」の原典となった文章が話題になりましたが、その文章はこの大伴旅人の邸宅で行われた新年の宴の開催の挨拶みたいなもので、作者もおそらく旅人本人であろうと見られています。なので令和の原典は「旅人んちでやった新年会」です。

 

全方向的に怒られそうなので話を戻しましょう。前掲の和歌でありますが、現代語訳も必要ないほど簡潔なものです。

「今生きてる人だっていつか死んじゃうんだからこの世にいる間は楽しみましょう」

くらいの感じでしょうか。

うん、そうだ、そうだよねえ。簡潔ながら人生の本質をよく捉えた歌です。

 

そしてもう一つ。

 

有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み

雨降らば降れ 風吹かば吹け

 

室町時代の禅僧、周建(しゅうけん)の詠んだ歌です。有漏路とは汚れや煩悩のある世界すなわちこの世、無漏路はその逆であの世、極楽浄土。

「人生とはこの世に生まれてあの世に帰るまでの間に一休みしてるくらいのもの、雨が降るなら降ればいいし、風が吹くなら吹けばいい」

といった意味になりましょうか。

 

これもやはり簡潔にして本質を捉えた、禅僧らしい歌であります。時に周建25歳。この歌を聞いた周建の師匠は、その一節を取って彼に「一休」という新たな号を与えます。

そう、周建とは一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、あの「一休さん」なのでした。

余談ですが、アニメのオープニングで「一休さーん」と呼ばれて「はーい!」と元気に返事をするあの小坊主さんは実は「一休さん」ではなく「周建さん」なのです。少なくとも、あの時点では。とんち話は主に江戸期の創作、「一休さーん」と呼んでる「さよちゃん」なる人物が実在したかどうかは不明。

 

座右の銘」と言えるかどうかは別として、私の生きる上での支え、指針みたいなものは奇遇にもともに「和歌」という形のものでした。まあ、五七調は入りやすいんでしょうね、日本人にはやっぱ。

で、これら2首に共通するのが、ある種の無常観。

 

人なんかどうせいつか死んじゃうんだし、金だって物だって、あの世に持って行けるものなど何一つない。吹けば飛ぶような富や権威を必死に追いかけたってしょうがないし、何もかもが努力だけで叶えられるなら苦労はない。何も得られなくたってそれが当たり前、そんなもんよと思えればOK。何か一つでも拾えれば儲けもん。人の一生なんて所詮は死ぬまでの暇つぶし。有り物でそこそこ楽しめりゃそれでいいんじゃない?

 

この2首に出会ったのは30代半ば。この世の中に、自分の力でどうこうできることがあまりにも少ないことを悟った時期でした。どうもできないなら、どうもしなければいい。そんな諦観の境地に至って、ある意味で私は救われたのでした。

 

さて。

皆様は先の2首、どのように読まれましたでしょうか。何を感じられましたでしょうか。

 

冒頭で、私はこれら2首の和歌を「恥ずかしながら」ご紹介いたそう、と申し上げました。

「現代語訳」と「解釈」は似て非なるもの。現代語訳は語句の意味や文法を間違わなければ誰がやってもおおよそ同じものになるはずですが、解釈は現代語訳を逸脱しない範囲での自由度、いわゆる「人それぞれ」の部分が反映されるものです。

 

その上で、改めて当時の私の解釈を見てみると……。

 

はい出た。

ほぼ自暴自棄。

荒んでる。いじけてる。やさぐれてる。ひねくれてる。すねてる。不貞腐れてる。捨て鉢。投げやり。やけっぱち。

 

「恥ずかしながら」とはまさにこのことで、別に謙遜したわけではありません。マジでハズいんす。

 

当時の私には、この程度の解釈しかできなかったのです。

 

無常観というのは決して間違っていないのでしょうが、私はそれをニヒリズムと直結させてしまった。そこに問題があったようです。改めて現代語訳を見てみましょう。

 

「今生きてる人だっていつか死んじゃうんだからこの世にいる間は楽しみましょう」

これを見た時に、例えば「楽しみましょう」の前に「思い切り」を加えるか「せいぜい」を加えるか。

 

「人生とはこの世に生まれてあの世に帰るまでの間に一休みしてるくらいのもの、雨が降るなら降ればいいし、風が吹くなら吹けばいい」

このあとに「そんなものに我が人生は邪魔されないのだ」と続けるか「もとより我が人生吹けば飛ぶようなものなのだ」と続けるか。

 

もちろん、真意は作者本人にしかわかりません。ただそれが実際にどうであれ、当時の私がニヒリズムと解釈したのなら、それが当時の私の心象だったということ。スピリチュアルな言い方をすれば「波動が低かった」ということです。

 

一方で私は、今になってそれを悔いたり責めたりしているわけではありません。先述の通り、ニヒリズムと解釈することで当時の私は救われた。これは確かなことです。早い話「そうでも思っとかなきゃやってらんねってなもんよ」という時期が10年ほどもあったのです。

 

今、ようやくこれら2首の歌に、別の解釈の仕方があることに気づけるようになりました。3.5次元も捨てたものではありません。繰り返しになりますが、過去の解釈が間違っていた、ということではありません。また、今の解釈が正しいとも限りません。まだまだ別の、さらに高次の解釈があって、数年後それを見つけてまた同じようなことを、恥を忍んで書くかもしれません。その時は「あ、こいつまたちょっと進化しやがったな」と思っていただければ幸いであります。

 

それにしても、荒んでたねえ、いじけてたねえ。そらおめえ、運気だって上がるはずもあんめえよ。

 

今は多少落ち着いてますが、またいつ荒むかわかりません。文章のそこかしこに「べらんめえ」が出始めたら要注意。その時はコメント等で慰めてください。