3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第21次元  無の境地――オモシロが消えていく。

第10次元都心に遊びに行きたいと思うことが少なくなったというようなことを申し上げました。2020年の末、「風の時代」が幕を開ける頃のことであります。そこから「財産大換金祭」や故郷への転居 第11次元参照を経て1年と少しが過ぎたところでありますが、その間、かつて我が庭としていた秋葉原や上野アメ横エリアを始め、都心の繁華街には一度も足を踏み入れることなく暮らしております。

無論、地理的に遠くなった、という単純な理由もありましょう。が、それとて何百円か払って小一時間電車に乗れば済む話で、本当の理由はやはり「別に行きたいと思わなくなった」というところにあります。用事があってちょっと大きめの賑やかな街に出ることはたまにありますが、用事済ますともうね、すぐ帰っちゃう。以前ならこれ幸いと、最低でも用事の倍は遊んで帰ったものでしたが、今はまったくと言っていいほどそんな気は起きません。恒例のストロングスタイルな修行の旅はおろか、日帰りでちょっと遠出したいという気すらも湧かない。

 

この1年半ほどの間に「別にやりたいと思わなくなった」 ことはこれに限りません。何かを創作したいとか、音楽を聴きたい、楽器を触りたいとかもあまり思わなくなったし、以前は毎週楽しみにしていたテレビ番組なんかも、今や録画が溜まるばかり。つまるところ「都心に遊びに行きたいと思わなくなった」を皮切りに、私にとって「面白いと思えるもの」が加速度的に減っているのであります。

 

日々を楽しく豊かに過ごせなければスピリチュアルも何もないわけで、そういう意味ではこれは由々しき事態であります。都心への興味が薄れた時に、師匠から「それも進化の過程の一つ、恐るるべからず」と言われてはいたものの、それ以前に実際問題として毎日が面白くないんだから、何とかしようと思うのが人情というもの。何か面白きものを求めて、あれこれ手を出すわけです。

 

まずは手っ取り早く「子供の頃に好きだったこと」をやってみましょう、ってことで、プラモデルを作ります。ちょうど一つ、何年か前に買ったまま放置していた「マスターグレード1/100ターンAガンダム」のキットが手元にありましたので、こいつを組み立てていきます。

それにしても今のガンプラってのはすごいすね。普通に組み立てるだけで色塗ったみたいに仕上がるし、関節の可動域に至ってはもはやヨガマスター級。40年近く前の「白一色姿勢維持力ゼロガンダム」をリアルタイムで知ってる我々世代には信じ難い進化でありますが、何だろう、ここまで完成度が高いと、逆にその先が見えない。モデラ―魂に火が点かない。頑張って色塗ろうとか、造形の甘い所を作り直そうとか、昔のキットみたいな「組み立ててからがスタート」というあのときめきは、あまり感じない。楽しくないわけではないけど、じゃあもう一個とか、頑張って昔のキットを手に入れてこようとかは、今のところ思わない。というわけでプラモデル作りは一旦保留。

 

プラモが駄目とくれば次はゲームだ、といきたいところですが、これに関しては実は既に、たぶん師匠んとこ通い始める前に「ミニファミコン」にて実証済みでありました。

この「ミニファミコン」なるもの、手のひらサイズの本体に、草創期の『ドンキーコング』から最盛期の『ファイナルファンタジーⅢ』まで、錚々たるタイトルが30本も内蔵されて約6千円。ファミコン発売の年に小学校に上がったファミコンゴールデンエイジの我々にとってはまさに夢のマシン、のはずでしたが。

うーん、何だろうねえ、今ひとつ燃えない。あの頃のような闘魂が湧いてこない。当時結構やり込んだ作品を片っ端からプレイしても、やはりあの頃のときめきは残念ながら、ない。『ファイナルファンタジー』シリーズについては別格で、特にスーパーファミコン時代の「Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ」は私の人生に多大なる影響を与えた作品群でありますが、常時プレイするゲームではないかな、というのが正直なところ。というわけでゲームも保留。

 

そうこうしてるうちに、まさかまさかの里帰り。ガンプラファミコンに塗れて過ごした街で再び暮らすことになったわけでございます。となればもうね、四の五の言わずに黙って歩け、ということで故郷の街をひたすら歩いて巡りますが。

 

当然といえば当然だけど、30年以上も時を経ればもうね、原形ないすよ。いやまあ、原形ないは言い過ぎとしても、例えばそれこそガンプラファミコンカセットを求めて足繁く通った模型店おもちゃ屋さんはすべて姿を消し、かつて暮らしたアパートはきれいに建て替えられ、夏になればカブトムシやクワガタを獲りに行った森はもはや影もない。4年生いっぱいまで通った小学校は固く門を閉ざし、幼き日を懐かしむおじさんのアクセスを断固拒否する、そんな時代になってしまいました。

で、結果として故郷の街を隈なく歩いて回っても「懐かしくなくはない」くらいの感じで終わり、単純に散歩としてはそれなりに楽しいけど、本来自分が持っていたはずの根源的な楽しみの再発見には、今のところ至っておりません。というわけでこれも保留!

 

ええ、詰みましたよ。

今楽しいものがなくなり、かつて楽しかったものも今やさにあらず。がらん堂の心に吹き込むすきま風がやけに沁みる今日この頃でありますが、ただもしこれが本当に師匠の言う「進化の過程の一つ」であるならば、なぜこうなったのかを考える意味は大いにありそうな気がします。

いつもならここでおなじみハイヤーセルフ閣下にお出ましいただくところでありますが、今回はね、なんかこれ書いてるうちに一つキーワードが浮かんだというか、もしかしたら閣下が何も言わずにそっと置いてってくれたのかもしれない。サンキューでーす閣下

で、そのキーワードがこれ。

 

「コミュニケーションツール」

 

思い返せばファミコン草創期、家で一人でゲームやってる奴なんかいなかったよね。放課後は誰かんちにみんなでカセット持ち寄って集まるのがお決まりでした。ゲームそのものも、対戦、協力、交代制と形はさまざまあれど、基本的に二人で遊ぶ前提で作られたものがほとんど。なのでファミコンの周りには常に、コントローラーを握ってる奴2名とガヤ数名がいて、やいのやいの言い合って白熱して、それはそれは賑やかなものでした。初代『マリオブラザーズ』が実は仁義なき対戦型ゲームであることが判明したのも、基本二人でプレイするものであればこそでございましょう。

 

プラモデルにしても、誰かと一緒に作ることこそそんなになかったものの、やはり上手に作って、誰かに見せたい、友達に自慢したいという思いは当然の如くありました。ここを改造したとか、この色は何と何を混ぜて出したとか、お互いに情報交換しつつ腕を磨き合ったものです。私が小学校高学年の頃には「ミニ四駆」が流行りましたが、あれも一人でやるもんじゃないよね、やっぱ。

 

いずれにしろ、ファミコンもプラモデルも私にとって実はコミュニケーションツール、すなわち誰かと体験を共有する手段だったということが、今になってわかったのであります。『ファイナルファンタジー』シリーズのような、いわば物語をじっくり味わうゲームならまだしも、『悪魔城ドラキュラ』みたいな激ムズアクションゲームを一人黙々とプレイするのははっきり言ってただの苦行。しょっぱい死に方しても誰も笑ってくんないし、全クリしたところで歓声一つ湧かないんじゃあ、面白くないのも当たり前です。

 

プラモデルなら今の時代SNSで出来栄えを披露できたりするんだろうけど、何かねえ、違うんだよね。結局画像見せるだけだし。それが私の望むコミュニケーションの形であるとは、今のところ思えません。

 

地上にあった光の玉が見る見る上昇し、瞬く間に雲すら遥か遠くに見下ろす上空へ。茫漠たる青い空間からの眺めは実に爽快。しかしそこはあまりに静かで、誰もいないし、誰も来ない。

 

ちょっと前に師匠んとこで瞑想した時に見たビジョン。師匠はやはり「進化の過程で感じる孤独の象徴」であると言います。

まあ冷静に考えてみれば、これまである意味慣れ親しんできた3次元の物質主義世界を離れて5次元世界への移行を試みているのだから、当たり前といえば当たり前。過去の楽しみから未来の楽しみの種を探るというのは、今の私にとっては得策ではないようでございます。

 

そして今回新たに生じた「コミュニケーションツールとして機能しないものは、本当の意味で楽しめてはいなかったのでは?」という疑問。

3次元物質主義の世界とその住人たちから一定の距離を保ってきたこの30年近くの間、もっぱら自己完結型の一人遊びに明け暮れていたわけですが、それが本当に、心底、楽しかったのかい? と問われると、確かに、何とも……。

 

この辺りはね、突き詰めるともうひとネタ分いけそうな気がするので今回はここまで! 引っ張れるもんはとことん引っ張り、出し惜しみなんかもね、いくらでもしてまいりますよぉ。

すべてはネタ切れ防止のため! じゃ、またね。

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