3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第2次元  試作実験機LFO-043、コードネーム「ヒトバシラン」出撃(!?)。

2021年1月現在、私が「ロスジェネフリーターおじさん」であることは前回までに散々述べてきたとおりですが、ここで改めて、私のスピリチュアル遍歴について記しておきます。こういう人がこれから人体実験のサンプルとして痛い苦しいスピリチュアルな経験を積んでいきますよ、ということでその初期状態、デフォルトを軽く発表しておきます。形式番号は「LFO-043」としておきましょう。

 

すでに第0次元で申し上げましたが、私の「スピリチュアル」という言葉とのファーストコンタクトは2003年か04年、私が20代の中頃のこと。それまでの私は、巷に溢れる「成功法則」とか「生き方指南」みたいなものにまったく興味がなく、むしろ忌避していました。「スピリチュアル」という言葉をいつどこで聞いたのかは定かではありませんが、聞いた当初は「スピリチュアル」もそんな数ある眉唾物の一つ、くらいにしか思っていなかったのでしょう。

 

そんなのいらない。

人生にアドバイスを求めるなんて弱い人間のすること。

私の人生の決断に、私の思考、私の感性以外のものは一切介入させたくない。

私の実力で勝ち取ったものだけが成果であり、幸運によって偶然もたらされたものは成果として認めない。

とにかく、人であれ神であれ、自分の心、自分の魂に自分以外のものが入ってくるのが嫌だった。自分の力だけでは駄目だったけど、法則通りやったら、神仏の力を借りたら成功しました、って、ズルじゃんかそんなの。嬉しいのかね、それで?

 

とまあ生意気に粋がってたわけですが、一方で思うように成果を得られない日々が続いてもいました。小説を書こうにもこれまた粋がって小難しいことを考えるばかりで構想すらまとまらず、あわよくば二足の草鞋と手を出した翻訳も結果が出ずいつまでも裸足のまま、実家暮らしをいいことにやりたくもないバイトで多少小遣い稼ぐ程度でぬるま湯にどっぷり。その実家も当時決して盤石ではなく、精神的にも経済的にも、そのうち崩壊するのではないかという懸念が常に付きまとい、それでもそれらすべてを自分の力で克服してこそ強い人間なのだと言い聞かせて己に鞭打って生きることに、少し疲れ始めた頃。

人生には、自分の力ではどうしようもない要素もあるのだと悟り始めた頃に、何となく目につき、耳に入り、気になり始めたのが「スピリチュアル」という言葉でした。眉唾物、そして弱い人間がすがるものだと思っていた禁断の「スピリチュアル」に、とうとう自ら手を伸ばした時にはもう、20代も終わりが見え始めていました。

 

最初に触れたのが何かは憶えていないのですが、それっぽい本を何冊か読み、やがてたどり着いたのがやっぱり江原啓之さんでした。調べてみると、テレビ番組『オーラの泉』が始まったのが2005年だそうで、おおよそ自分の記憶している時系列とも一致します。初回からではなかったですが、わりと初期、深夜枠の時代から観ていました。北海道では確か『水曜どうでしょう』のあとに放送されていたと記憶しています。懐かしいすねえ、原付で発進し損ねてウィリーしてたあの大泉さんが、鼻から牛乳噴いて泣いてたあの安田さんが、いまや日本を代表する俳優さんに……。

失敬。とにかく、これ以降数年間、『オーラの泉』の終了が2009年だそうですが、その辺りまでに江原さんのご著書を中心にあらゆる書物を読み漁って、体得とは程遠いものの、少なくともスピリチュアリズムの基本的知識はそれなりに得られたと思います。同時に、以前は頑なに拒んでいた人の助言、あるいは霊的な視点から見た人の生き方や世界の構造を学ぶことに抵抗がなくなり、むしろそれを楽しめるようになりました。ついでと言ってはなんですが、成功法則や心理学、風水や禅などにも興味を広げ、気になったものは片っ端から吸収しました。

 

しかし前回記したとおり、やはり書物からだけでは体得は難しく、また実践するにも独学では限界があり、さらには「そんな聖人君子みたいにならなきゃだめ?」とか「立派なお坊さんなんだろうけど、バイトとかしたことないよねこの人絶対」とか、いわゆる「普通の人の生活」との親和性に乏しい論説も少なからずあることを知り、徐々に熱が冷めていきました。実際、その間自分の人生がそう大きく動くことも、好転することもなかったのだから、当然と言えば当然。といって完全に捨ててしまったわけではなく、以降はスピリチュアリズムともつかず離れず、「自分には体得できないけど知恵として使えれば使おうかな」とか「へえーそんな不思議な話があるんだ面白いね」くらいの距離感を保った状態で、昨年、2020年の「大接近」に至るのであります。

 

以上が私のスピリチュアル遍歴の概要ですが、同時にこの間ずっと私の人生「停滞期」でもあったのです。それこそ読んだ本の中に「自分から動いて波風立てないとチャンスは来ませんよ」と説くものがあって、じゃあっつってバシャバシャ波風立てても瞬く間に凪いでしまうし、反対に「じたばた足掻いても駄目な時は駄目。チャンスを待って、来た時こそ動くのです」と説かれて、じゃあっつって待ってればきっちり来ないわけですよ、一生。

そういう長い長い滞りの中にあれば「俺の何が悪い? 何を間違った?」と己に矛先を向けたり、「身の程を知れってこと? あ、そう」と矛を放り出してしまったり、「何で思うようにできない? 何でもっと頑張れない?」と自分をコントロールできないことに苛立ちや情けなさを感じることも、毎日のようにありました。

 

今やっと、その時の自分が大いなる思い違いをしていたことに気付くことができ、また当時の自分に、何か悪いことしたな、申し訳なかったな、と思えるようになりました。一方で、じゃああの当時どうしていればよかったのか、と考えてみても、正直そこまではわからない。これが3.5次元という、今の自分の掛け値なしの状態ということなのでしょう。3.5次元の自分が、3次元、あるいは何十冊か本読んで3.1次元くらいになった自分を見ている、少なくとも自分ではそんな風に認識しています。

これはこれで意味があるというか、ある種の思考実験として、私自身にとっても、読者の皆様にとっても、何か有益なものを形にして提示する一つの手段となり得る気がします。

まあ、現在進行形の実験についてはそうそう毎日目立った成果が出るわけでもないでしょうから、そうやって過去にあった出来事を思い返して、今の私の3.5次元の視点から解釈し直すことでこのブログを水増し有意義なものにしていきましょう、ということであります。ただまあそうすることで、己の過去のあれやこれやお恥ずかしい姿を晒すことにもなるわけですが……。

 

師匠は「過去は変えられる」と言います。

過去の出来事に対する、今の自分の解釈を変えることで、過去の出来事が持つ、今の自分にとっての意味を変える。簡単に言えばこういうことのようです。ややオカルト的な表現をするならば、今の自分が「最悪な経験をした」と思う過去まで時間を遡り、「この経験が実はのちの自分にとって最善の経験になる」と解釈することを選んだ世界に進路を変更する、いわゆる「パラレルシフト」みたいなことになるのでしょうか。

 

そこまでのことができるかどうかは別として、試みとしては面白いかと思います。大きな成果があれば儲けもん、なきゃないで別に損もないし。たぶん。

 

そう考えると、過去の経験を振り返って今の自分が解釈し直す過程を文章化する作業そのものが、一種の自己ヒーリングになったりするのかもしれません。

ただ、そうなるとこのブログが私の自己ヒーリングの場になってしまう可能性があり、そうなると皆様は「お前のカルテなんざ読みたかねえ!」ってなり、私は「晒してる身にもならんかい!」ってなり……、え、もしかしてこのブログ誰も得しない……?