第20次元 当たるも当たらぬも――吾(われ)未だ宇宙の覇王たり得ず。
書店などで「占い・スピリチュアル」と銘打ったコーナーをよく見かけます。世間的にも書店的にもこれらは「まあだいたい同じもの」という扱いなのでございましょうか。実際、3次元的な物質世界を超えたレベル、小難しい言い方をすれば形而上(けいじじょう)的に自分なりこの世なりを理解するためのツールという意味では、似たものと言えなくもない。自分や世界の見方を深め、人生を豊かにするツールがたくさんあるのはよいことであります。
かく言う私も占い屋さんに行ったことがあります。初めて行ったのはおそらく20年ほど前、一度ちゃんと手相を鑑てもらいたいと思っておりまして、ある時思い立って札幌のとある占い屋さんを訪ねました。
と言いますのも、私の手というのがこれがもう線だらけでして、薄い細かいのも入れたら、テレビとかで言ってる「強運の線」みたいなのが全部ある、ように見えなくもない。ならばそろそろ、この宇宙は我が掌中に収まらなければおかしいのではないか。
とか思わなくもなかったけど、実際は単純に「占い」という観点から私という人間はどう分析されるのか、それを知りたかっただけでした。あとはまあ、強いて言うなら、私のこのくっちゃくちゃの手相を、果たして「プロの占い師」は本当に読み取ることができるのか、もしかしたら匙投げて降参するんじゃないか、とか少々いぢわるな期待をしてたりしてなかったり。
ただ、私が人生で初めて相見(あいまみ)えた占い師さんはお世辞抜きで素晴らしい方でしたし、自分で言うのもなんですが、当時の私の「占われ方」もきっと正しかったと、20年の時を経て、スピリチュアリズムを学ぶ身となった今も思うのであります。
じゃあその「正しい占われ方」とは一体何なんだい?
当然それは私が正しいと考える形の一つに過ぎないのですが、決して間違ってはいないという確信がありますので言っちゃいます。それは。
何とかしてもらおうとしないこと。
先に申し上げたとおり、私が占い師を訪ねた目的は「占いという観点から私という人間はどう分析されるのか」を知ること。悩みを解決するための答えを求めたわけでも、「俺はこれからどうしたらいいんすか」と泣きついたわけでもありません。
占いは形而上的なツールの一つ。当たる当たらないをエンタメ的に楽しんで終わり、というのが悪いとは言わないけど、それに一喜一憂するよりは、その結果から自分自身の特性や傾向を客観的に吟味し、活かせるものは活かす。そういう楽しみ方のほうがより深く、意義深いものになりましょう。自分の過去のことなんか別に当ててくんなくたって自分で知ってるし。
そういう意識を20年前に既に持っていたことは、我ながら褒めてやってもよかろう。さすがは生粋の修行僧。
対照的に、と言っていいのかわかんないけど、巷には「占いジプシー」と呼ばれる人々がいるそうです。評判の占い師を何人も訪ねて回っては、結局満足できずにまた今日も、みたいな。
なぜそうなるか。答えは簡単。
何とかしてもらおうとしてるから。
プロの、ましてや高名な占い師ならその場ですぐに「正解」をくれるはず。言われたとおりにすれば幸せになれるに違いない。
なるほど、いわゆる「当たる占い師さん」ならそういうこともあり得ましょう。
じゃあ例えばその占い師さんがくれた「正解」というのが、
「今日の占いの結果をもとに、これまでの自分の人生を省みて、今の自分の意識としっかり向き合って、これからどう生きるか、じっくり考えてみてくださいね」
といったものだったら、どうしますか?
言われたとおりにするならそれは正しい占われ方、あるいは形而上的ツールの正しい使い方の一つと言えましょう。即日幸せになれるとは言わずとも、少なくとも幸せに一歩近づくことは間違いない。
で、それをしない人、せっかくくれた正解を正しく受け取れず、意識がどうとかめんどいとか言っちゃう人が「赤い服を着れば運気が上がる」とか「この男は出世しないから付き合っちゃだめ」といったインスタントな正解、なんなら自分にとって耳触りのよいだけの言葉を求めて荒野を彷徨うことになるのでありましょう。
そうして彷徨ってるうちはまだいいし、彷徨った末に「自分をどうにかできるのは自分だけ」ということに気づければなおよし。
よろしくないのが、タイムリーにビシッとはまる、インスタントで耳触りのよいだけの正解をバシッとくれちゃう占い師に出会ってしまうこと。
これが危ない。
何がどう危ないかについては、私などが今さら改めて言うまでもございますまい。依存と支配はワンセット。素寒貧(すかんぴん)になった上に借金までして、やれお導きを開運をと崇め奉ってしまう。借金しなきゃいけない時点で金運ねえじゃんか、ということに気づくこともなく……。
で、やはり「スピリチュアルジプシー」というのもまたいるわけですよ、残念ながら。強力な守護霊を付けてあげましょう、そして次はおなじみ龍を、なんて言われて気づけば沼。おーこわこわ。
私の師匠はよく「AさんとBさんとCさん、誰と付き合えば一番得ですか? というレベルの人はこのサロンにたどり着けないようにしてある」と言います。「ようにしてある」というところに何というか未知なるパワーを感じますが、要はインスタントな答えや小手先の救いだけを求める人は来てもしょうがないということで、それは師匠やともに学ぶ仲間たちを見ていればよく理解できます。「オーラが金色だから強運」とか「あの人がお金持ちなのは前世が高貴だったから」とかいうレベルの人も、おそらく師匠のサロンには一生たどり着けますまい。
「肉の自我の私に何ほどのことができるかわからないけど、神の道具として使っていただけるなら如何ようにも」
師匠がよく使う言い回しです。肉の自我、すなわち肉体と顕在意識の次元にある自分には何ほどのこともできない。神、あるいは肉体を持たない高次元の存在に力を貸してもらえて初めて、それを人のために使うことも叶う。
この考えは二つの意味で大事なことだと私は思っています。
一つはヒーリングを受けるクライアントに、一般的にありがちな誤解を与えないこと。少なくとも私どもが師匠から教わるヒーリングは、何でも望みを叶えてあげる魔法でも龍の卸売りでもありません。最終的に自分の在り方や意識の持ち方を決めるのはクライアント自身であって、ヒーラーは決めてあげられません。
そしていま一つが、ヒーラー自身が己の能力を誤解しないこと。「ヒーラーたる自分は人を救ってあげられる」とか考え出すと、これはもう危険信号と言って差し支えありません。当然その考えは「人を救ってあげられるヒーラーたる自分はすごい人間である」というところに容易に行き着きます。高次元の存在の力はあくまで拝借するものであって、絶対に「使役」するものではなく、「贈与」なんてのはもはや論外。自分がすごい奴であるとか、すごい奴になりたいとか、すごい奴だと思われたいとか思い始めると、大概間違えます。
占い師もまた然り。私が占ってもらったのはこの20年でせいぜい5回ほど。決して多くはない経験の中でも、やはり出会ってしまうわけですよ。「目先の小銭欲しすぎ占い師」とか「毒舌キャラで売れたすぎ占い師」とか、何か変な努力をしちゃう人たちに。ただまあ、そうして養われた「占い師を占う能力」には確かな自信があります。信頼と実績の占い師占い。
そんな私が素晴らしいと思った、初めて相見えた占い師さんのことを、改めてお話ししておきましょう。
約20年前、札幌某所の占い屋さんの一室。私のしわくちゃの掌を眺めながら、50代と見える女性の占い師さんは特に驚くふうもなく「ああこれは、多いねえ」と、独り言のように呟きました。この線はああでこの線はこうで、といった説明をひとしきり終えると、こんなことを言いました。
「例えば小さな水槽しか持ってない人は、ちょっと水が入ればすぐいっぱいになって満足するけど、あなたの水槽は大きすぎて、同じ量の水を入れても全然いっぱいになった気になれない。普通の人にしたらすごい努力をしても、あなたは全然満足できなくて、どんなに頑張っても努力が足りないと思ってしまう」
ほほう、それはまた……。
ストラーーーーイク!
ど真ん中のストレートにまったく手が出ず、1球で三振したかの如く呆然とする私に、占い師さんは続けて言います。
「もっと馬鹿にならなきゃ」
その後もご自身の経験談などを交えつつ、途中で鳴ったアラームもすぐ止めて、「今日はほかにお客さんもいないし、延長料金もいらないからね」と、心ゆくまで語り合ってくれました。
無論、それで人生が一変したわけではないけど、自分では気づけなかった自分の特性を客観的に知れた経験や、「もっと馬鹿にならなきゃ」という金言は、自分の生き方在り方を再考する大きな契機となったことは間違いありません。まあ、再考した結果20年後に己がヒーラー修行を始めるとは、その時の私は知る由もないのでしたが……。
というわけで、このブログも今後より一層馬鹿馬鹿しいものにしてまいろうと、決意も新たにした次第にございます。じゃ~ま~たね~ば~いば~い。