第13次元 電脳浄化(?)――思ひ出たちよ、さらば。
栄光の六畳一人暮らしの終焉、そして故郷の街に舞い戻るまでの顛末を前々回、前回と綴って参ったわけでありますが、おかげさまで新生活もどうにか様になり、また師匠の元でのヒーラー修行もしれっと続けることができました。まことありがたきこと。
そんなスピリチュアルな学びの中でも一つ、基本となる概念があります。それは。
今自分が目にしている現実は、すべて自分の意識が作り出したもの。
いつの日かこういったことを私自身の言葉でしっかりと皆様にお伝えできる日が来ることを願いつつ日々学んでおる次第でありますが、今日のところは師匠の受け売りの横流しっす。すいやせん。
とはいえこのような言葉を日頃から心に留め置くだけでも、自分の生活や生き方に対するスタンスは変わってきます。例えば何かちょっと好ましくないようなことが起きた時でも、ただ「ついてねーなー」で終わらせるのではなく、ならばそのついてねー状況は、己の中にあるどんな意識が反映されたものなのかと、そこまで考えてみるのです。
で、そんな時こそがこのブログでも度々ご登場いただく「ハイヤーセルフ閣下」の出番だったりします。3次元の頭、思考では答えを出せない問題を、より高次の存在に投げかけてみる。イメージが難しければとりあえず「天の声」あるいは「中の人」に聞いてみる、と思っていただければよろしゅうございましょう。
かく言う私も常に明確な答えを得られるわけではありませんが、何かにつけこういうことをする習慣が身につくと、高次の存在との繋がりも強くなり、メッセージもより明瞭なものとなる、ということでありましょう。まずは「起きたことには意味がある」という意識をしっかり持つこと。そして──
「起こしたこと」もまた然り。
つい先日のこと。新居に光回線が開通し、WiFiで繋がるあれやこれやを大方セッティングし終え、最後に残ったのが無線ハードディスク。こいつが使えるようになればすべて完了、旧居でのネット環境が完全に復元され、これまで撮りためた写真や、取り込んだ音楽、動画などもワイヤレスで閲覧、視聴できる。設定もさほど難しくはない、はずだったのですが。
なぜかうまくいかない。スマホとタブレットは繋がるのに、パソコンだけがどうやっても繋がらない。一番使うやつが繋がらないんじゃあしょうがねえ、ってんであれこれやってみるも、塩梅はよろしくない。
うーん、あれぇ、おかしいなぁ……。
勘のよろしい方なら、いや、特別よろしくない方でも、もうこの時点でなんか、嫌な予感しますよね? というか、嫌な予感しかしないでしょ?
処理中の「グルグル」、なんでこんな長いのかなぁ、こんな長いこと、一体何の処理してんのかなぁ……。
この「グレートリセット」により、15年以上に渡って収集した写真や音楽などのデジタルデータを、私はほぼすべて失ったのでありました。
己の手で起こしたとはいえ、予期せぬ惨事。深い深い絶望の底で涙を枯らし三日寝込む、かと思いきや、実際そんなこともなく、私は自分でも不思議なほどに淡々と、事実を受け入れていました。せいぜい「あ~やっちったな~」くらいのもんです。
さらに淡々と事実を整理すると、音楽に関してはデジタルプレーヤーに主要なものをコピーしてあるので相当数残っているはずだが、無論すべてではない。一方写真は今スマホに入っている最近のもの以外はすべて消失した。あとは……わかんない。何入ってたっけ?
言ってしまえばこんなもんなんです。第11次元で記したように、売ってしまって手元に残っていないCDも少なからずありますが、どうしても欲しければまた中古とかて買えばいい。写真にしても趣味と言うほど凝っているわけでもなく、(修行の!)旅の記録として撮った程度。それはそれで大事なものだけど、それが消えたからといって記憶や思い出が消えてしまうわけでもありますまい。そしてそれ以外に「あーあれなくなっちったのかー!」と残念がるようなものは、正直そんなに思い当たらないのです。
さて。
「起きたこと」さらには「起こしたこと」には必ず意味がある、と先に申し上げました。
ならばこの「グレートリセット」にも当然意味があるはずで、我々はそこから学びを得なければならないのです。では早速、ハイヤーセルフ閣下にお尋ねしてみましょう。
ますはやはり「要らない物を手放す」という流れが徹底してあり、それが形のない「情報」の範囲にまで及んだ、ということであります。本や服など物質に限らず、「データ」という非物質的なものであっても、不要な物をため込むことは波動の鈍化に繋がる、ということなのでしょう。むしろ非物質的ゆえに、整理や処分の必要性を感じにくく、無意識的にため込んでしまいやすい、というのがデジタルデータの特徴と言えるかもしれません。
別にため込んだってハードディスクが膨れ上がるわけでもなし、最悪容量いっぱい使い切っても、金額にして1万円程度、スペースにしてお弁当箱1個分程度の余裕があれば、買い足して済ますこともできてしまう。写真にしろ音楽にしろとりあえず無造作にぶち込んで、その後一生見ない聴かない物がいくらたまっても、そんなに困ることはない。
ただ、波動は確実に重くなりますよ、という話。物質であれ非物質であれ、要らぬ物は持たぬに越したことはありません。とにかく今必要ない物を手放し、波動を少しでも軽くすることが、今の私にとって重要なことで、その意識の反映が今回のこの「グレートリセット」ということなのです。実際「グレートリセット」後の今、改めて思い返してみても、自分が何を失ったのかよくわからない。逆に言えば私が失った物の大半はよくわからない物、すなわち「今の私に必要ない物」だったということです。
無論、消失が惜しまれる物もなくはないのですが、それらの中でも必要な物は必要なタイミングでまた必ず手に入るのです。それより何より、今の私に必要ない、そしてなかなか処分する機会のない「データ」という物を、多少荒っぽい手段ではあったけど、存分に手放すことができたことを、しっかりと喜ぶべきでありましょう。
ついでにもう一つ学んだことがあるとすれば、それは「すべての卵を一つのかごに入れてはいけない」ということ。
投資などにおけるいわゆる「一点買い」の危険性を説く際によく使われる表現ですが、これは大容量デジタルストレージにもそのまま当てはめることができましょう。
「3テラのやつ一つ買えば一生分入るんじゃね?」とか言って何でもかんでもそれに放り込んで、その3テラのやつ一つが壊れたりグレートリセットされたりすれば、一生分のデータがたちまちおじゃんになる。
当たり前と言えば当たり前のことだけど、それに備えて何かするかっていうと、しないんだよねえこれがさ。
「俺のハードディスクは壊れたりしない!」
「わたしはそんな馬鹿みたいにグレートリセットなんかしない!!」
そうお思いのみなさん。
あるんですよぉ。
起こるんですよぉ、グレートリセット。
気を付けましょうねぇ。
最後に念のため、あくまで念のため、一応申し上げておきます。
「グレートリセット」とは「大容量記憶媒体の偶発的初期化」のことではありません。あしからず。