3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第12次元  風の時代――からの、「ふりだしに戻る」

2020年の暮れに部屋の中のいらない物を容赦なく売り飛ばし、身も心も軽くして風の時代を迎え、さらにまあまあのお小遣いもゲットして、無事に年を越すことができました、というのが前回のお話。大変にありがたいことではありましたが、しかし予断を許さない状況はまだまだ続きます。

 

実はこの時期しばらく職にあぶれておりまして、埋蔵金は減る一方。2月に入ってようやく仕事にありつくも、新たな職場はカオス過ぎてとても長続きしそうにない、というか、したくない。というわけで再び職探しを始めた頃。

 

母親から電話がありました。

私の家からは徒歩と電車で1時間半ほどの、さほど遠からぬところに住んでいますが、このご時世ということもあり、今年は正月に親族一同会することもなく、おそらく丸一年ほどは会っていなかったでしょうか。

要件はというと、母親のほうの事情をここであまり詳(つまび)らかにすることはできませんが、早い話、また一緒に暮らしてはくれまいか、ということでした。

 

私としては、3年前にようやく掴んだ一人暮らしの機会を手放すことに、ためらいがないはずもない。とはいえ母親の今の境遇や、コロナ禍でちょっと参っている精神状態などを斟酌すると、無下に断るわけにもいかない。仮にこの話を受けるならば、諸々の事情からして各々今の住居を出て、かつ今の母親の住居に近いところで新たな住居を得る、すなわち私が今暮らす街から出る、という運びになろう。一応都内だけど都心からはちょっと遠くなり、また住み慣れた今の街を離れるのはちょいと寂しいけど、それ以外の選択肢は事実上ない。

ただ考えようによっては、この流れは今の私にとってある意味、追い風ともなり得るのではなかろうか……?

話しながらつらつらとそんなことを考えた結果、私はその場で、実にあっさりと、母親の申し出を承諾してしまいました。

 

そう。追い風はとうに吹いていたのです。

去年から。

 

「物を減らしたい」という意識はわかりやすく引っ越しに結びつくし、第10次元でちょっと触れた「都心に遊びに出たい気持ちが薄れた」というのも、都心から離れることへの抵抗感を和らげるための、ハイヤーセルフ閣下の仕業によるものだったのかもしれない。またこのタイミングで速攻辞めたいカオスな職場を選んでしまったのも「速攻辞めやすいように」という閣下の思し召しだったのかもしれないし、それも含めた経済的停滞も、私は私で親に頼らざるを得ない、つまりは「断れない」ように閣下が仕組んだ罠(!?)だったのかもしれない。

 

そしてもう一つ、おそらく最も強く感じたメッセージ、それは。

 

――学びを続けるべし。

 

実はこの時、師匠の元での学びに一度区切りをつけようと考えていました。

およそ半年に渡ってヒーリングの技術を学びつつ、それに伴って今までの自分の中にあったありとあらゆる意識と、それらが作り出してきた現実を見てきたわけですが、それは当然、これまでの生き方在り方を根本から見直すという作業でもありました。

半年というのはそれなりの期間ではあるけど、40年続けた生き方在り方が変わる時間としては、かなり短い。変化の体感速度たるやまさに矢の如し。そのスピードにちょっと戸惑いを感じていたので、ここらで一旦落ち着いて、ここまで学んだことを整理し、自分がこれからどうしたいのか、行く行くヒーラーになりたいのか、はたまた学んだことを何か別の形で表現したいのか、じっくり考えてみよう。正直なところ「財政再建」もせねばならぬし。

そう思っていたところでして、実際師匠にも、ともに学んだ仲間たちにも、その旨をすでに伝えてあったのですが。

 

母親と電話で話しているうちに、大した根拠もないけど、引っ越した先で何やっていくら稼ぐとか、具体的な当てなんかなんにもないんだけど。

 

……なんか、いけんじゃね?

いけんなら、やるしかなくね? 今でしょ!

 

と、うっかり思ってしまったのでした。

強いて言えば、一人暮らしよりは出費は減るだろう、くらいのあほみたいな打算があったのみですが、何よりもそこに「流れ」を感じ、決断なんていう大袈裟なものもなく、ごく自然に、当たり前のようにそれに乗っかった、というのが本当のところ。これからどうするかは学びながら考えればよいし、やってみたいことがあれば学びながらやればよかろう。とにもかくにも「今」なんだ、というメッセージが、この追い風には託されていた、ということでありましょう。これが風の時代の流れというなら、とことん乗ってやろうではないか。

 

というわけで私は速攻カオスな職場を辞し、これも風の時代の流れか、新居も速攻で決まり、地獄のような手続きの嵐と、懲役のような荷造りの山を乗り越え、新天地に降り立ったのであります。

 

いや。

新天地という表現は適切ではないかもしれません。というのも。

私が降り立った街は何を隠そう、私の故郷なのであります。

 

吾四十三戻振出。

われ四十三にしてふりだしに戻る。

 

かの有名な孔子の言葉、ではありません。私が勝手にそれっぽく作りました。ふりだしとかないし孔子の時代たぶん。

とはいえこの歳になってよもや故郷で暮らすことになろうとは、3年前に上京した時には夢にも思いませんでした。これもまた運命であり、風の時代の導き。人の世とはかくも面白きものなり、といったところでありましょうが、曲がりなりにもスピリチュアリズムを学んだ者としては、そこに一体どんな意味があるのかを自分で見出さねばなりません。その辺のところ、ハイヤーセルフ閣下に早速お尋ねしてみると……。

 

原点に帰るべし。

 

平凡。ありがち。

言葉にすると確かにまあそうなんですけど、閣下が言うんだから間違いない。その意図するところ、平凡でありがちなその言葉の奥に何が見えるのか、探ってみましょう。

 

まず、原点に「帰るべし」ということは、今の私が原点から離れている、ということです。原点とはスタート地点、まさに「ふりだし」のこと。物理的、地理的には文字通り私は「原点」に帰ってきたのですが、それを機にスピリチュアルな意味での「原点」にも帰ってみなさい、というのが、閣下の言わんとするところのようであります。

 

スピリチュアルな原点。今の私は、そこから離れてしまっている。そしてそこに帰ることを勧められているわけだから、原点から離れている今の状況はあまり好ましくない。少なくとも原点に帰ったほうが、より自然な、心地よい在り方を実現できるはず。

 

ならば、原点とは?

 

単純に、この街で暮らしていた幼少期の私の魂が「原点」であるとすれば、まんまそこに帰れというのは、いくら閣下の厳命といえども無理な話。これまでに得た知識も経験も、良かれ悪しかれなかったことにはできないし、またすべきでもありません。むしろそれはそれとして活かし、役立てるべきでありましょう。

 

では、それらを持ったまま原点に帰るとは、これ如何に?

 

というのが、これから故郷の街で生きる私の一つの課題、ハイヤーセルフ閣下からの「作麼生(そもさん)!」であります。ええ、まだわかんないすよ全然。「説破!」はいつの日かまた、ということで。

 

ちなみに。

引っ越しの時に部屋じゅうの全荷物を運び出したあとも、やはりあの消えたブレスレットは見つかりませんでした。正直なところ私も、まあ何だかんだ言ってどっかにはあるんだろうとか思ってましたが、どうやらマジで消えた模様。

「急に知らないブレスレット出てきた!」という方、いらしたらぜひご一報いただきたく。

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