3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第7次元  リアルに食えない――「プリン・アイス事変」始末。

「食える、食えない」というと、俗に食い扶持(ぶち)、すなわち経済力の程度の表現であったりします。「パチプロじゃやっぱ食えないからユーチューバー目指します」と言う人はつまり、パチンコでは生活に十分な収入を得られない人、ということになります。

彼にユーチューブで食える未来が訪れるかどうかは別として、しかしながら人間お金さえあればものが食べられるわけではありません。2兆持ってても食えん時は食えんのです。半月ほど前に、私はそれを身をもって経験しました。

 

体調を崩したわけでも、両腕を骨折したわけでもありません。さすがに2兆はなくとも、2千くらいなら軽く持ってます。2千、円なら。

 

なのに、食えない。なぜか?

そう、あいつです。直径5ミリの悪魔、ピンポイントで確実に人の弱点を突いてくるあいつ。

その名は「口内炎」。

 

皆様もご経験がおありでございましょう。唇の裏なんかにぷつっとあるだけでまあ痛い。それがね、舌の左サイドの裏側に、特大サイズのやつができてしまったわけですよ、僕なんかは。

食べ物が直接当たってしみるのは当然ですが、舌の裏というのは咀嚼する時に歯に当たるので、味の濃いものや熱いもの、堅いものや鋭利なものを避けても、痛みは避けられません。結局、何を食べても己の歯で患部を攻撃することになるのです。

 

地獄すよ、まじ。リアルにまともなメシが食えない。

 

例えば、パンなんかも駄目。軟らかいとか関係ない。ちょっともぐもぐするだけで患部に歯が当たり、激痛が走る。というか、1もぐで1ヒットするから、もぐもぐはできない。1もぐ1ヒット1悶絶。これをちびりちびり、泣きながら繰り返すわけです。

 

パンが駄目なら、もう固体は全般的にNG。米とか麺なんて夢のまた夢。ただ、最低限のエネルギーだけは摂取せねば、ということでチョコレートを一つ、口に入れてみる。これならノーもぐでいける、と思ったらまさかの大誤算。ノーもぐで溶けたまでは目論見通り。が、何の成分が原因かわかんないけど、とにかく油気があってねっとりしたものがずっと患部にくっついたままの状態がキープされ、それに伴って激烈にしみる状態もキープされた結果、やはり悶絶の憂き目を見るのでありました。

六畳一間のアパートの一室でチョコを頬張った男が突如謎の悶絶。もはや毒殺現場かサイコホラーにしか見えない状況をどうにか乗り切りはしたものの、こうなるともう、何も食べたくない。お腹は減るけど、こんな痛い思いをするくらいなら食べないほうがまし。

とは言え本当に何も食べないわけにもいかず、試行錯誤を重ねた末に出した結論、それは。

 

プリンとアイス。

 

――私、プリンとアイスしか食べられないの。(43歳男性/東京都)

 

プリンとアイスで飢えをしのいでは、舌に軟膏を塗りたくる。そんな自動的プチ断食生活を三日ほど送る羽目になりましたが、おかげさまで生き延びることができ、今こうして超面白ブログを綴ることができているのであります。

 

 

スピリチュアリズムでは、現実はすべて意識が作り出していると解釈します。良かれ悪しかれ(良い、悪いというジャッジもスピリチュアリズムでは本来しませんが)、現象は高次元の意識が3次元化、すなわち物質化したものであると考えるのです。

であるならば、今回私の身に起きたこの「プリン・アイス事変」とは一体何だったのか。私の中にあるどのような意識がこれを引き起こしたのでしょうか。

こんな時、師匠はよく高次の意識「ハイヤーセルフ」に訊いてごらん、と言います。どうすか、こういう言葉使うとこんなふざけたブログでも何か急にスピリチュアルっぽくなるでしょ?

 

ですが。

大変残念なことに、この「プリン・アイス事変」に関しては、ハイヤーセルフ閣下の出番なし!

閣下にお尋ねするまでもなく、わかっちゃったんすよね。「プリン・アイス事変」の原因たる意識とはつまり。

 

メシめんどい。

 

生来食への関心が薄い私には「おいしいものを食べたい」という願望がほとんどないのです。無論、率先してまずいものを食べたいという願望もないですが、例えばグルメサイトをチェックするとか、人気のお店に並ぶとかいったことは一切しません。数百円でおいしいものがいただけるお店がいっぱいあるんだからそれで十分。実際、そういうお店で激マズ地獄を見た、なんて経験もありません。

 

食べることへの興味がこの程度なんだから、作るとなったらもうね、あれですよ。「おいしいものを食べたい!」って思わないんだから、「おいしいものを作りたい!」なんて思うわきゃない。

栄養には多少気を使っているのでインスタントばっかというわけでもありませんが、「自炊」と言うにはちょいとお粗末。電子レンジやらIHコンロやらハイテク機器を駆使しつつ、やってることは縄文人レベル、いや縄文人をなめてはいけない。土器などを見てわかる通り、彼らの文化、精神レベルは非常に高い。私などよりも美味への探求心ははるかに強かったかもしれない。

となると、私の料理は石器時代の「加熱処理」レベルということになりましょうか。生で食べられないものにとりあえず火を通し、あとは何らかの塩気を多少加えればOK。素材の味にすべてを賭けた、人類の黎明期を思わせる一品を、大自然の恵みそのままにいただく。名付けて「原始御膳」。

 

別にいいじゃん。そら、人様から銭取ってこれ食わしたら敗訴確定だろうけど、己でこさえて己に食らわす分には何も問題ありません。原始御膳、意外といけますよ。

 

ただ、それならそれで、しっかり味わいながらいただかなきゃね、ってことなんだと思うのであります。

 

禅の言葉に「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」というものがあります。禅においては食事も修行、お茶飲むならお茶を、ご飯食べるならご飯を、しっかり味わう。私語を慎み、雑念を払い、ただ一心に味わう。それは「今ここのみに生きる」ということでもあるのでしょう。

 

めんどいけど己で作んなきゃしょうがないからっつって適当に作ったものを、テレビ観ながらなんとなく流し込む。

んなことやってるとね、例の平たいバットみたいな棒の、たぶん角で脳天いかれるんでしょうな。和尚のフルスイングで。

 

幸い私は禅僧ではないので流血沙汰は免れましたが、代わり、と言うのもなんですが、口内炎による自動的プチ断食から学ぶ機会を与えられたというわけです。

 

念のため申し上げますが、これは罰(ばち)ではありません。有り難い学びの機会です。食えることの有り難みを、身をもって学んだのです。別にこれを機に禅の修行を始めようとか、グルメに目覚めようとかいうわけではもちろんないけど、「プリン・アイス事変」というまさに「食えない」時を経た今、命の源たる食への意識は、多少なりとも変わらざるを得ません。

テレビ観ながらでもいい。インスタントでも、原始御膳でもいい。ただ、いただきますと手を合わせ、できる限り味わい、ごちそうさまと手を合わせる。それだけでも、食べられることへの感謝の気持ちを表すことはできます。今後プリンやアイスをいただく時なんかはもう、私は泣いてしまうかもしれない。

第3次元でも申し上げましたが、一見災難とも思える出来事でも、自分の解釈次第で有り難い、貴重な学びの機会になり得る、ということを、今回私は「プリン・アイス事変」の経験を通して皆様に改めてお伝えいたした次第でございます。

 

というわけで今回はここまで。次回は「奥様必見! 原始御膳秘密のレシピ大公開!!」です。お楽しみに!

 

……ええ、嘘すよ。当たり前じゃーん。

 

 

第6次元  いきなりソモサン――この扉、開くべきか、開かざるべきか。

師匠の元を訪れるのは勉強の時だけではありません。師匠のヒーリングセッションを受けに行く、言わば「お客さん」として参上することもあります。

つい先日もその機会があり、約束の時間にサロンに行ってみると、ドアにホワイトボードが掛かっている。曰く「只今ヒーリング中につき入店できません」。

スクールやその他勉強会をやっている時も師匠はこういったメッセージを出しているので、このボード自体は見慣れたもの。今はまだ先客のセッション中ということなのであろう。そういえば前回のセッションの時もこうだったと思い出しつつ、私はやはり前回と同じく近所を軽く散歩して時間を潰しました。

 

10分ほどして戻ってみると、まだボードが出ている。この時点で私のセッションの開始時間を5分ほど過ぎています。まあしょうがないよね、というわけでもう一周お散歩。戻る。まだ出てる。お散歩、戻る、まだ出てる、お散歩……。

 

開始時間を20分ほども過ぎてまだ出ているのを見た時、さすがにちょっとおかしいぞ、と思い、携帯を取り出す。師匠から何かしら連絡がないかと確認するも、着信、メール、いずれもない。

 

うーむ。まあ、延びてしまうのは致し方なしとして、師匠なら一報くれるはず。もしやボードしまい忘れてるだけ? と思い、意を決してドアノブに手をかけ、ゆっくり、そーっと、引いてみる。

 

お、開いてる。

人を入れない時はたいがい施錠してるのに。やっぱもう前の人終わってんのかな、と思いつつ、なおも慎重に、ドアを少しずつ開けていく、と。

 

下駄箱に、靴が一足。

 

はあぁーーーやばいやばいうそうそすいやせんすいやせん!!

 

絶対、絶対音出ないようにそおーっと、ドアを閉める。

……おお、あっぶねえ。やっぱまだやってんだ前の人。

 

とはいえ、もういい加減30分近く超過して、師匠からも連絡がない、となると……。

 

非常事態!?

私は経験がありませんが、人によっては心の奥底に隠れていたもの、押し込めていたものがヒーリングの効果で一気に表出することがあるそうです。今やってる人も、もしかしたらもうやめられない止まらない、スピリチュアルビッグバン真っ最中だったりするのか。であれば師匠も「時間だから今日はここまで!」とは行かず、私に連絡する間もなく奮闘しているのか。だとしたらもうしょうがない。人様のスピリチュアルビッグバンを邪魔すべきではない、むしろ祝福すべきであろうし、なんなら数十分後には私もスピリチュアルビッグバンを引き起こす可能性だってなくはない。どうしよう、私が連鎖してしまったら、今日は「スピリチュアルビッグバン大会」が開催されてしまうかもしれない。師匠大丈夫すか、と御身を案じていた、その時。

 

「えー何、いたの? どして入って来ないの待ってたのに?」

 

……ええ、奇遇ですね。私も待ってたところですよ。

かくして40分ほど遅れての会場入り、いや、もはや何の大会も開催されないので普通のサロン入りと相成ったわけですが、ここまでの経緯を師匠とともに検証してみると、ある意味奇跡的な偶然が重なっていたことがわかりました。

 

まずは「ヒーリング中」のホワイトボード。師匠によればこれはお客さんが来る30分前には出しているそうで、私が見たのはつまり私のためのボードだったわけです。前回は時間潰しの散歩から戻る時に、たまたまサロンから出てくる人影を少し離れたところから確認できたので、同じボードが出ていても私は何のためらいもなくドアを開けることができたのでした。今回はそれがなかったから前の人がまだいるのだと思い込んでしまい、そっとドアを開けた時に靴が見えたことでそれが確信に変わってしまったのです。無論、靴は師匠のものでした。

 

さらに、10分ほど過ぎた辺りでやはり師匠は電話とメールをくれていました。が、私の携帯には着信記録もメールもありません。安さに負けてあの会社のあの回線に変えて以来、ネットが圏外なのは知っていたので、メールが届いていないのは想定内。ただ、電話が圏外ってことはさすがにないんじゃない? ってことで試しにもう一度かけてもらったところ我が携帯、徐(しず)かなること林の如く、動かざること山の如し。そして師匠の携帯は、相手の圏外たるを淡々と告げるのでありました。詳しくどことは言えないけど、ここは都内。時は令和……。恐るべし、あの会社のあの回線。

 

さらにさらに、師匠は時間が空けばプランターの植物に水をやるなど何かしら外に出る習慣があるそうですが、今日はなぜかそれをしなかった。普段のように過ごしていれば、私はもう少し早く発見されていたはずです。

 

こんなにいろいろ重なるもんすかねえ、と答え合わせの結果に師匠と二人半ば感心しつつ私のセッションが始まるのですが、いまだ3.5次元を彷徨う私とて薄々気付いていたのです。

一口にスピリチュアリズムと言っても解釈は様々、まさに十人十色だったりするのかもしれませんが、私の師匠はこう言います。

 

偶然はない。

すべての事象は必然かつ必要である。

 

であるならば。

今日のこの一連の出来事は、なぜ起こったのか。なぜ私にとって、師匠にとって、必要だったのか。

 

別にそうと決めていたわけではなくとも、セッションが進むうちに自ずとその話題に触れる流れに、やはりなってきます。

 

師匠は私に問います。

「何で入ってこなかったの? 時間が過ぎてるなら遠慮なく開ければよかったのに」

「ええ、実はそーっと開けまして。で、靴が見えて、怖すぎてそーっと閉めました」

「誰がいたって別にいいじゃない、本来あなたのための時間なんだから、それを主張することは悪いことじゃないし、どうなってるか確認するのだって、迷惑なことでもないでしょう?」

「ええ、でもセッション中だったらやっぱ悪いかなと思って……」

 

そう、あの時私の脳内では見知らぬ人のスピリチュアルビッグバンが展開されていた。が、蓋を開けてみればそんなものはただの幻、スピリチュアルビッグバンなんか誰もしてないし、そんなものはそもそもない。

それなりに慎重になるべき条件は確かに揃ってはいたものの、一方でいい加減20分も過ぎていたら師匠の言うように、こちらから何らかのアクションを起こしてもよい、というか起こすべきであったろうとは思います。電話にしたって、待つばかりでなく自分からかけていれば圏外であることがわかったはずだし、その時点で電話とメール以外の手段を講ずべしという判断もできたはず。結局私は幻に怯えて一歩を踏み出せず、また人への気遣いを言い訳に、自分を大事にすることを怠っていたのでした。そしてその辺りに、今の私の課題がある、ということなのです。

 

もちろん、師匠は何一つ咎めたりはしません。先述の通り、この一連の出来事はすべて必然かつ必要、私と師匠にとっての、学びの機会だったのです。

 

そして師匠は今一つ、私に問います。

「実は今日のボードのメッセージとは別に、本当に特殊なヒーリングセッションをやる時に出す『只今特殊ヒーリング中につき、業者様も含め一切の入店をご遠慮いただいております』っていうメッセージがあるんだけど、次に来た時にそれが出てたら、あなたどうする?」

 

これはなかなか、急にシビアな問いすね。まさに禅問答の「作麼生(そもさん)」。

まあ、そこからまた別の話の流れになってしまったので、その場で説破、とはなりませんでしたが、やはりこれが今の私の課題なのでしょう。敢えて今ここで答えるとするなら「考えない」。その日、その時、感じたままに行動する。

そこで例えば「開けてよし」と感じたなら、開ける。その結果「何すか師匠まじでやったんすか?」と笑って入れてもらえれば正解、「何すか師匠まじでやってたんすか?」と激ギレされて追い出されても正解。その時は、師匠はまじでやってた特殊セッションを中断されて激ギレするという経験を、私は師匠と人様のセッションを中断して激ギレされるという経験を、各々すべきだった、ということなのです。まあ、そんなことはないと思いますが、あくまで例えということで。

 

一見無茶苦茶なようですが、5次元の世界とはそういうもののようです。

 

ただ、ほんとに次回そのメッセージ出てたらねえ……。帰っちゃうよねたぶん、3.5次元は。怖すぎて。

 

第5次元  憧れの罠、編集の妙。

物語の基本構造というものを学問的に分析すると、究極的に二つの要素に集約されるそうです。

 

1.行って帰る

2.欠けを埋める

 

特定の作品を具体例にして解説するとそれだけで今日の分終わっちゃうので、軽めに行きます。各々好きな漫画なり映画なりに当てはめてみてください。

1は今いる場所を離れて、目的を果たし、かつ何かしらの成果を得て帰ってくる、という要素。『桃太郎』ですね。

2は何かしらのハンデを背負った主人公が、冒険の途上、あるいは冒険の結果それを克服する、という要素。こちらは『一寸法師』でしょうか。

 

もちろん、どちらの要素も物理的に描かれるばかりではありません。心理的に遠いところ、精神的なハンデ、それらを織り込んだ「心の冒険譚」となることもありましょう。

これらの要素を多面的、重層的に構成することで一つの物語が出来上がるわけですが、何にしろ主人公は行って帰り、欠けを埋めた結果、行く前とは別人になっています。それが「成長」であり、冒険を達成し成長した主人公はそれを境に、新たな人生を歩み始めます。

 

そんな主人公に、読み手や観客が自分を投影することで「感動」が生まれます。自分の人生、境遇になぞらえて共感したり、自分には到底できないことに挑む姿に憧れを抱いたりするわけです。皆様だってそうでございましょう。人というものは任侠映画を観れば肩で風を切り、ビジネスドラマを観れば意味もなく倍返しがしたくなるもの。頑張ればいつの日かペガサス流星拳やかめはめ波が出るものだと本気で思ってしまう、悲しい生き物なのです。

 

それはさておき、物語の中で描かれるような出来事は、我々の人生においてはほとんど起こりません。逆説的に言えば、だからこそ人は物語を求める、ということでしょう。これは何も異世界冒険ファンタジーに限ったことではありません。バスケットボールを題材にした漫画に憧れてバスケ部に入っても、主人公と同じ体験はできません。それとは違う形で有意義な体験ができたとしても、憧れの物語の主人公そのものになることは、やはり誰にもできないのです。

 

あの漫画の、あのドラマの、あの主人公みたいにはなれない。それを悟った時、わかってはいてもちょっと寂しくなったりするものです。まあこれが現実だよねと受け入れるほかないのですが、比較対象がフィクションならばそれもさほど難しいことではありますまい。

 

じゃあ、これがノンフィクションなら? 実在の人物なら?

そう考えると、「伝記」や「自伝」などは、実は大きな落とし穴になり得ることがわかってきます。そして落とし穴の深さは、その人物に対する憧れの強さに比例します。

 

書物にしろ映像にしろ、伝記や自伝、ノンフィクションと名の付く作品に描かれているものはすべて実際にあった出来事、事実である。一応それを前提としておきましょう。

ただ、事実のすべてではない。

 

もちろんページ数や時間、いわゆる「尺」という単純な問題もあります。が、もう一つ。これも考えてみれば当然のことですが、制作者は意図を持って制作しています。早い話、売れるものにしたい。そのためには、多くの人の共感を呼び、憧れの的になるような人物像を描かねばなりません。

 

とある漫画雑誌は、売れる漫画に必要な要素として「友情・努力・勝利」の三つを挙げているそうです。

 

いかがでしょう。この三つに、冒頭に挙げた二つも加味して、皆様がこれまでに読んだり観たりしてきた伝記や自伝を重ねてみると……。

 

もちろん、すべてが絶対にそうだとは申しませんし、それが悪いとも申しません。

自伝や伝記は、主題となる人物の人生を編集して作り出された「物語」なのです。

 

難題に立ち向かい、達成のために努力を惜しまず、逆境やハンデを克服し、挫けそうな時には助けてくれる仲間がいて、長い長い試練の旅路を経て、ついに栄光の勝利を手にする。

 

このパターンは人生をドラマティックに描く上で、とても便利なのです。

一方で、これにそぐわないエピソードはカットされます。野口英世の借金まみれの放蕩三昧、エジソンの電流による動物虐待、当然カットです。子供には見せられません!

同じ構図は、今活躍しているアスリートやアーティスト、実業家などの自伝にもあるはずです。そらそうだよね、別に犯罪とかじゃなくても絶対人に言えないこと言いたくないことの十や二十、ないわきゃないすよ、人間だもの。

 

繰り返しになりますが、それが悪いと言っているわけではありません。ノンフィクションを批判するわけでも、有名人なんて虚像だ、とか言うわけでもありません。

ただ、どれだけ憧れの人を追いかけたとしても、我々が知り得るその人の姿は編集されたものでしかないのです。憧れの、尊敬するあの人のように生きたいとどれほど頑張ったところで、生まれた時、場所、家庭環境、容姿、体形、その他何から何まで違う上、都合よく編集された姿しか知り得ないのだから土台無理な話。編集によって作り出された「憧れの人の人生」という物語の主人公に自分がなろうとすることは、言ってしまえばかめはめ波出そうとしてんのと大差ないんです。「生まれが貧乏だったからハングリー精神で成功できた」という人のような人生を歩みたいと思った時、生まれが貧乏じゃなかったらもうアウト。もっと言えば「貧乏だから成功できた」というのはあくまで本人の自己分析で、本当に成功の原因が貧乏にあったかどうかなんて立証のしようがない。よって仮に自ら貧乏になったところで、その人と同じように成功するとは限らない。たいがい貧乏なり損で終わりじゃないすかね。

 

私は今ようやく、自分の人生の「理想の物語」を捨てられるようになりつつあるところです。この流れでお名前を出すと何か「悪い例」みたいに思われてしまいそうなので出しませんが、この人みたいな生き方をしたい、と思う人が私にも幾人かいました。

苦難を乗り越え、逆境を跳ね返した末に勝利を、幸福を掴み取る。自分の人生にそんなストーリーを描いている人には、苦難と逆境しか来ないのだそうです。ええ、実感してますよ。もうね、どれくらいの苦難に打ち勝てばかっこいいのかとかわかんないからきりがないし、わかったところでそんなさじ加減できないし。

一方で、師匠から「その憧れの人の何十倍も楽に、簡単に、あなたは成功していいんだよ」と言われた時に、「はい」と素直に言えない自分がまだまだいたりもします。ほんとにそれで嬉しいかな、とか思ってしまうところが3.5次元のいじらしさ、か……?

 

ただ、これから私は自分の人生の主人公たることを選びます。ほかの誰かの物語になぞらえることも、他人の人生の主人公たらんとすることも、今後一切いたさぬことを誓います。

 

男四十三歳。

かめはめ波は、あきらめました。

 

第4次元  座右の銘(笑)――ずいぶんといじけなすったねえおめえさん。

40年も生きていると、特段読書家でなくともそれなりの数の書物に出会い、またその中に含蓄ある言葉を見つけたりすることもあります。時にそれらは「座右の銘」として、人生の指針になることもありましょう。

恥ずかしながら私にもいくつかございまして、今回はそれをご紹介いたそうかと思います。

 

生ける者 ついにも死ぬる ものにあれば 

この世なる間は 楽しくをあらな

 

大伴旅人(おおとものたびと)という、飛鳥・奈良時代の貴族・歌人の詠んだ和歌で、『万葉集』に収録されたものです。『万葉集』と言えば「初春の令月にして気淑(よ)く風和(やわら)ぐ」、すなわち「令和」の原典となった文章が話題になりましたが、その文章はこの大伴旅人の邸宅で行われた新年の宴の開催の挨拶みたいなもので、作者もおそらく旅人本人であろうと見られています。なので令和の原典は「旅人んちでやった新年会」です。

 

全方向的に怒られそうなので話を戻しましょう。前掲の和歌でありますが、現代語訳も必要ないほど簡潔なものです。

「今生きてる人だっていつか死んじゃうんだからこの世にいる間は楽しみましょう」

くらいの感じでしょうか。

うん、そうだ、そうだよねえ。簡潔ながら人生の本質をよく捉えた歌です。

 

そしてもう一つ。

 

有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み

雨降らば降れ 風吹かば吹け

 

室町時代の禅僧、周建(しゅうけん)の詠んだ歌です。有漏路とは汚れや煩悩のある世界すなわちこの世、無漏路はその逆であの世、極楽浄土。

「人生とはこの世に生まれてあの世に帰るまでの間に一休みしてるくらいのもの、雨が降るなら降ればいいし、風が吹くなら吹けばいい」

といった意味になりましょうか。

 

これもやはり簡潔にして本質を捉えた、禅僧らしい歌であります。時に周建25歳。この歌を聞いた周建の師匠は、その一節を取って彼に「一休」という新たな号を与えます。

そう、周建とは一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、あの「一休さん」なのでした。

余談ですが、アニメのオープニングで「一休さーん」と呼ばれて「はーい!」と元気に返事をするあの小坊主さんは実は「一休さん」ではなく「周建さん」なのです。少なくとも、あの時点では。とんち話は主に江戸期の創作、「一休さーん」と呼んでる「さよちゃん」なる人物が実在したかどうかは不明。

 

座右の銘」と言えるかどうかは別として、私の生きる上での支え、指針みたいなものは奇遇にもともに「和歌」という形のものでした。まあ、五七調は入りやすいんでしょうね、日本人にはやっぱ。

で、これら2首に共通するのが、ある種の無常観。

 

人なんかどうせいつか死んじゃうんだし、金だって物だって、あの世に持って行けるものなど何一つない。吹けば飛ぶような富や権威を必死に追いかけたってしょうがないし、何もかもが努力だけで叶えられるなら苦労はない。何も得られなくたってそれが当たり前、そんなもんよと思えればOK。何か一つでも拾えれば儲けもん。人の一生なんて所詮は死ぬまでの暇つぶし。有り物でそこそこ楽しめりゃそれでいいんじゃない?

 

この2首に出会ったのは30代半ば。この世の中に、自分の力でどうこうできることがあまりにも少ないことを悟った時期でした。どうもできないなら、どうもしなければいい。そんな諦観の境地に至って、ある意味で私は救われたのでした。

 

さて。

皆様は先の2首、どのように読まれましたでしょうか。何を感じられましたでしょうか。

 

冒頭で、私はこれら2首の和歌を「恥ずかしながら」ご紹介いたそう、と申し上げました。

「現代語訳」と「解釈」は似て非なるもの。現代語訳は語句の意味や文法を間違わなければ誰がやってもおおよそ同じものになるはずですが、解釈は現代語訳を逸脱しない範囲での自由度、いわゆる「人それぞれ」の部分が反映されるものです。

 

その上で、改めて当時の私の解釈を見てみると……。

 

はい出た。

ほぼ自暴自棄。

荒んでる。いじけてる。やさぐれてる。ひねくれてる。すねてる。不貞腐れてる。捨て鉢。投げやり。やけっぱち。

 

「恥ずかしながら」とはまさにこのことで、別に謙遜したわけではありません。マジでハズいんす。

 

当時の私には、この程度の解釈しかできなかったのです。

 

無常観というのは決して間違っていないのでしょうが、私はそれをニヒリズムと直結させてしまった。そこに問題があったようです。改めて現代語訳を見てみましょう。

 

「今生きてる人だっていつか死んじゃうんだからこの世にいる間は楽しみましょう」

これを見た時に、例えば「楽しみましょう」の前に「思い切り」を加えるか「せいぜい」を加えるか。

 

「人生とはこの世に生まれてあの世に帰るまでの間に一休みしてるくらいのもの、雨が降るなら降ればいいし、風が吹くなら吹けばいい」

このあとに「そんなものに我が人生は邪魔されないのだ」と続けるか「もとより我が人生吹けば飛ぶようなものなのだ」と続けるか。

 

もちろん、真意は作者本人にしかわかりません。ただそれが実際にどうであれ、当時の私がニヒリズムと解釈したのなら、それが当時の私の心象だったということ。スピリチュアルな言い方をすれば「波動が低かった」ということです。

 

一方で私は、今になってそれを悔いたり責めたりしているわけではありません。先述の通り、ニヒリズムと解釈することで当時の私は救われた。これは確かなことです。早い話「そうでも思っとかなきゃやってらんねってなもんよ」という時期が10年ほどもあったのです。

 

今、ようやくこれら2首の歌に、別の解釈の仕方があることに気づけるようになりました。3.5次元も捨てたものではありません。繰り返しになりますが、過去の解釈が間違っていた、ということではありません。また、今の解釈が正しいとも限りません。まだまだ別の、さらに高次の解釈があって、数年後それを見つけてまた同じようなことを、恥を忍んで書くかもしれません。その時は「あ、こいつまたちょっと進化しやがったな」と思っていただければ幸いであります。

 

それにしても、荒んでたねえ、いじけてたねえ。そらおめえ、運気だって上がるはずもあんめえよ。

 

今は多少落ち着いてますが、またいつ荒むかわかりません。文章のそこかしこに「べらんめえ」が出始めたら要注意。その時はコメント等で慰めてください。

 

第3次元  「ありがとう」は「激レア」――1万4千円の純損失を涙目で感謝してみる。

激動の2020年も残すところわずかとなった12月のある日、ふと気付くのです。

 

ない。

 

1年半ほど愛用していた、パワーストーンのブレスレットが。

自宅の定位置にあったはずなのに。隙間に落ちた? いやいや、定位置付近に、何かのはずみとか手が滑ったりとかで物が落ちてしまうような隙間はない。ならば外で落としてきた? いや、それもない。出かける時に着けようと定位置にあったブレスレットに手を伸ばし、でもすぐ帰るし今日はやめよ、と思って結局着けずに出た、というのがそれを見た最後で、ないと気付いたのがその次の日だったから。念のため直近使ったバッグや衣服のポケットなど、可能性のある所は隈なく探したのですが、やはり見つからない。

 

役目を終えた、あるいは身代わりになったブレスレットの紐が切れてばらばらになる、という話はよく聞きますが、家に置いてあったのが丸ごと消える、っていうのはあんま聞いたことないんすけど……。

そんな話を師匠にすると、曰く「ああ、あるよそういうのも」。

……あるんすね。軽く。

 

まあ、それなりに気に入ってもいたし、カネの話はあまりしたくないけど、1万したし。まあまあショックですよ、1万したし。ええ、カネの話ではないですよ、ええ、1……。

 

いよいよこんな超常現象が軽く起きてしまうレベルになってきたのか、といろんな意味で感慨もひとしお、次は一体何が消えるやらと半ば楽しみになりつつある今日この頃であります。

 

ちょっと違う話ですが、これを遡ること三か月。

とある施設でプリペイドカードを使っていたのですが、ある日機械から取り出し忘れてしまったようで、次に使う時に財布を探って「あれ?」となったのです。

 

あ、やったな俺。

 

ただ、何回か前、私はやはり誰かが取り忘れたカードを受付に届け出た。となれば、私のカードもあるいは……。

「カードの届け出ですか? ええ、ないですよ」

 

世知辛い。あまりに厳しい現実。

「あれ、あいつこの前得意げに人の忘れたカード届けに来た奴じゃね? 今度は己が忘れて、しかも届いてないでやんの、ぷぷwwwwww」

とか思われているかどうかは別として、ともかく私は買ってからまだ3回くらいしか使っていない、残高4千円ほどのプリペイドカードをあっさり失くしたのでありました。

 

ここで執着するのはよろしくない。現に取り戻す術はもはやないんだし。

しかしまったく執着しないというのも、何だろう、カードに対して、引いてはそれを買う時に使ったお金に対して、あまりに薄情ではなかろうか、愛がないのではなかろうか……?

 

そんな話を師匠にすると、曰く「その時本当に必要とする人の手に渡ったんだから、いいんじゃない?」

……なるほど、そう来ましたか。

 

確かに、私にとって本当に大事なものだと思っていたらもっと注意していたはず。カネが絡むとめっぽう敏感になる私にしては珍しいミスではあります。

 

かくして私は3か月のうちに2つの失くしもの、総額1万4千円ほどの純損失を被ったのであります。生活が破綻するほどではなくとも、それなりに痛い。麻雀なら親にマンガン振り込んだぐらいのダメージ、と言えばわかりやすいでしょうか。

 

ああ、ありがたい。

 

「またまたースピリチュアルぶって無理しちゃってんじゃないの?」

そうお思いになりますか?

 

無理は、してます。

今こうしてキーボードを叩いている間もみるみる画面が滲んで……。

 

とにかく、今私が涙を吞んで申し上げたいのは、「ありがたい」は「有り難い」である、ということ。

「難い」とは漢字の示す通り「難しい、なかなかそうならない」という意味で、「忘れ難い思い出」とか「にわかに信じ難い」などのように、わりと普通に使います。つまり。

 

「有り難い」は本来「滅多にない」、すなわち「激レア」という意味なのです。希少性が価値となり、価値に対する思いが感謝となった、ということでありましょう。先の私の「ああ、ありがたい」は、ブレスレットが消えるとかカード取り忘れるとか、そんな経験は滅多にできないよね、という意味での「有り難い」なのです。感謝? できるかんなもん(!!)。

 

「ありがとう」は「ありがたく」の音便(おんびん)、話しやすいように変形したもので、本来は「ありがとう(有り難う)存ずる」など、あとに動詞を伴って文として成立しますが、いつしか単独でお礼の言葉として使われるようになったものです。

 

すべてのものに感謝をしましょう。どんな人にも「ありがとう」と言いましょう。

 

ほぼすべての「スピリチュアル本」に書かれていて、しかしほぼすべての読者が実践できないことの、これが代表格ではないでしょうか。辛い経験、嫌な人、嫌いな仕事、しょっぱい人生、マンガン振り込み。それらのどれ一つにも感謝できない自分がまた嫌になる。そんな人も少なからずいらっしゃることでしょう。私だってまだまだ。

 

ならば。

上手に感謝できないなら、とりあえず本来の意味で「ありがとう」を使ってみてはどうか、と思ったわけです。例えば、嫌いな人に「感謝」の意味で「ありがとう」と思えないのなら、まずは「こんな嫌いな人に出会うなんて経験は滅多にできることではない、おかげでレアな経験をさせてもらったな」という意味で「ありがとう」を使ってみる、といった具合に。

 

また宇宙規模で見れば、地球という星がまさに「激レア」だそうで、高次元で何不自由なく生きて(?)いる魂が、低次元の経験をしてみたくてわざわざ不自由な肉体を持って、今や宇宙の中でも数少ない低次元の星である地球に生まれることを選ぶのだと言われます。

 

だとすれば我々は「地球で生きている」、ただそれだけですでに「ありがたい」存在、全宇宙の中の超激レア種、ということになります。

そんな風に考えてみれば、感謝が下手、カネにうるさい、ガンダムマニア、という私のような者でも、自分自身の存在をとりあえず「ありがたい」と思えるかもしれないし、やがて「言霊」が機能すれば感謝の意味で「ありがたい」と思える日が来るかもしれない。そうなれば、周りの人たちみんなにも感謝を込めて「ありがとう」を言えるようになるかもしれない。

 

そんな効果を期待しつつ、実験として少しずつ実践してみようかと思います。芳しい成果があれば報告いたしますが、あくまで私の個人的な実験ですので皆様に敢えてお勧めはいたしません。悪しからず。

 

……ガンダムマニアは別によくね?

 

 

 

第2次元  試作実験機LFO-043、コードネーム「ヒトバシラン」出撃(!?)。

2021年1月現在、私が「ロスジェネフリーターおじさん」であることは前回までに散々述べてきたとおりですが、ここで改めて、私のスピリチュアル遍歴について記しておきます。こういう人がこれから人体実験のサンプルとして痛い苦しいスピリチュアルな経験を積んでいきますよ、ということでその初期状態、デフォルトを軽く発表しておきます。形式番号は「LFO-043」としておきましょう。

 

すでに第0次元で申し上げましたが、私の「スピリチュアル」という言葉とのファーストコンタクトは2003年か04年、私が20代の中頃のこと。それまでの私は、巷に溢れる「成功法則」とか「生き方指南」みたいなものにまったく興味がなく、むしろ忌避していました。「スピリチュアル」という言葉をいつどこで聞いたのかは定かではありませんが、聞いた当初は「スピリチュアル」もそんな数ある眉唾物の一つ、くらいにしか思っていなかったのでしょう。

 

そんなのいらない。

人生にアドバイスを求めるなんて弱い人間のすること。

私の人生の決断に、私の思考、私の感性以外のものは一切介入させたくない。

私の実力で勝ち取ったものだけが成果であり、幸運によって偶然もたらされたものは成果として認めない。

とにかく、人であれ神であれ、自分の心、自分の魂に自分以外のものが入ってくるのが嫌だった。自分の力だけでは駄目だったけど、法則通りやったら、神仏の力を借りたら成功しました、って、ズルじゃんかそんなの。嬉しいのかね、それで?

 

とまあ生意気に粋がってたわけですが、一方で思うように成果を得られない日々が続いてもいました。小説を書こうにもこれまた粋がって小難しいことを考えるばかりで構想すらまとまらず、あわよくば二足の草鞋と手を出した翻訳も結果が出ずいつまでも裸足のまま、実家暮らしをいいことにやりたくもないバイトで多少小遣い稼ぐ程度でぬるま湯にどっぷり。その実家も当時決して盤石ではなく、精神的にも経済的にも、そのうち崩壊するのではないかという懸念が常に付きまとい、それでもそれらすべてを自分の力で克服してこそ強い人間なのだと言い聞かせて己に鞭打って生きることに、少し疲れ始めた頃。

人生には、自分の力ではどうしようもない要素もあるのだと悟り始めた頃に、何となく目につき、耳に入り、気になり始めたのが「スピリチュアル」という言葉でした。眉唾物、そして弱い人間がすがるものだと思っていた禁断の「スピリチュアル」に、とうとう自ら手を伸ばした時にはもう、20代も終わりが見え始めていました。

 

最初に触れたのが何かは憶えていないのですが、それっぽい本を何冊か読み、やがてたどり着いたのがやっぱり江原啓之さんでした。調べてみると、テレビ番組『オーラの泉』が始まったのが2005年だそうで、おおよそ自分の記憶している時系列とも一致します。初回からではなかったですが、わりと初期、深夜枠の時代から観ていました。北海道では確か『水曜どうでしょう』のあとに放送されていたと記憶しています。懐かしいすねえ、原付で発進し損ねてウィリーしてたあの大泉さんが、鼻から牛乳噴いて泣いてたあの安田さんが、いまや日本を代表する俳優さんに……。

失敬。とにかく、これ以降数年間、『オーラの泉』の終了が2009年だそうですが、その辺りまでに江原さんのご著書を中心にあらゆる書物を読み漁って、体得とは程遠いものの、少なくともスピリチュアリズムの基本的知識はそれなりに得られたと思います。同時に、以前は頑なに拒んでいた人の助言、あるいは霊的な視点から見た人の生き方や世界の構造を学ぶことに抵抗がなくなり、むしろそれを楽しめるようになりました。ついでと言ってはなんですが、成功法則や心理学、風水や禅などにも興味を広げ、気になったものは片っ端から吸収しました。

 

しかし前回記したとおり、やはり書物からだけでは体得は難しく、また実践するにも独学では限界があり、さらには「そんな聖人君子みたいにならなきゃだめ?」とか「立派なお坊さんなんだろうけど、バイトとかしたことないよねこの人絶対」とか、いわゆる「普通の人の生活」との親和性に乏しい論説も少なからずあることを知り、徐々に熱が冷めていきました。実際、その間自分の人生がそう大きく動くことも、好転することもなかったのだから、当然と言えば当然。といって完全に捨ててしまったわけではなく、以降はスピリチュアリズムともつかず離れず、「自分には体得できないけど知恵として使えれば使おうかな」とか「へえーそんな不思議な話があるんだ面白いね」くらいの距離感を保った状態で、昨年、2020年の「大接近」に至るのであります。

 

以上が私のスピリチュアル遍歴の概要ですが、同時にこの間ずっと私の人生「停滞期」でもあったのです。それこそ読んだ本の中に「自分から動いて波風立てないとチャンスは来ませんよ」と説くものがあって、じゃあっつってバシャバシャ波風立てても瞬く間に凪いでしまうし、反対に「じたばた足掻いても駄目な時は駄目。チャンスを待って、来た時こそ動くのです」と説かれて、じゃあっつって待ってればきっちり来ないわけですよ、一生。

そういう長い長い滞りの中にあれば「俺の何が悪い? 何を間違った?」と己に矛先を向けたり、「身の程を知れってこと? あ、そう」と矛を放り出してしまったり、「何で思うようにできない? 何でもっと頑張れない?」と自分をコントロールできないことに苛立ちや情けなさを感じることも、毎日のようにありました。

 

今やっと、その時の自分が大いなる思い違いをしていたことに気付くことができ、また当時の自分に、何か悪いことしたな、申し訳なかったな、と思えるようになりました。一方で、じゃああの当時どうしていればよかったのか、と考えてみても、正直そこまではわからない。これが3.5次元という、今の自分の掛け値なしの状態ということなのでしょう。3.5次元の自分が、3次元、あるいは何十冊か本読んで3.1次元くらいになった自分を見ている、少なくとも自分ではそんな風に認識しています。

これはこれで意味があるというか、ある種の思考実験として、私自身にとっても、読者の皆様にとっても、何か有益なものを形にして提示する一つの手段となり得る気がします。

まあ、現在進行形の実験についてはそうそう毎日目立った成果が出るわけでもないでしょうから、そうやって過去にあった出来事を思い返して、今の私の3.5次元の視点から解釈し直すことでこのブログを水増し有意義なものにしていきましょう、ということであります。ただまあそうすることで、己の過去のあれやこれやお恥ずかしい姿を晒すことにもなるわけですが……。

 

師匠は「過去は変えられる」と言います。

過去の出来事に対する、今の自分の解釈を変えることで、過去の出来事が持つ、今の自分にとっての意味を変える。簡単に言えばこういうことのようです。ややオカルト的な表現をするならば、今の自分が「最悪な経験をした」と思う過去まで時間を遡り、「この経験が実はのちの自分にとって最善の経験になる」と解釈することを選んだ世界に進路を変更する、いわゆる「パラレルシフト」みたいなことになるのでしょうか。

 

そこまでのことができるかどうかは別として、試みとしては面白いかと思います。大きな成果があれば儲けもん、なきゃないで別に損もないし。たぶん。

 

そう考えると、過去の経験を振り返って今の自分が解釈し直す過程を文章化する作業そのものが、一種の自己ヒーリングになったりするのかもしれません。

ただ、そうなるとこのブログが私の自己ヒーリングの場になってしまう可能性があり、そうなると皆様は「お前のカルテなんざ読みたかねえ!」ってなり、私は「晒してる身にもならんかい!」ってなり……、え、もしかしてこのブログ誰も得しない……?

 

 

 

第1次元  これから「建設中のスカイツリー」の真似をします!

就職氷河期真っただ中の2000年に大学を卒業し、非正規街道をのらりくらりと20年ほども歩んだところでまさかのヒーラー修行。そんな私がこのブログを始めた目的を、簡潔な一文で表すとこのような具合になりましょうか。

 

人類のために、我が身を供した「中長期的人体実験」を敢行し、その過程を公開するため。

 

……まあ、聞いてください。

おそらくこのブログに興味を持ってくださった方々は、これまでに少なからず、いわゆる「スピリチュアル本」をお手に取られたことがございましょう。その中で、こんな風に思ったこと、ありませんか?

 

・内容は素晴らしいけど、書いてる人が生まれつきの霊能者なので同じ感覚を共有できない。

・内容は素晴らしいけど、書いてる人が臨死体験者とか特殊すぎて同じ感覚を共有できない。

・内容は素晴らしいけど、書いてる人がヨガマスターとか禅僧とか神すぎて同じ感覚を共有できない。

 

どうですか、あるでしょう? で、私を含めこの世のスピリチュアル一般人全員が抱くこれらのモヤモヤ感を一言で表せば。

 

「そりゃそう、だけどさ……」

 

決して非難するつもりはありません。あくまで著者は本当に能力のある方で、内容も全て本心、その方から見た世界の、あるいは宇宙の真実である、ということを大前提として、そして私自身も相当数の「スピリチュアル本」を読み漁って学ばせていただいた身として、その上で私の結論を敢えて言わせていただくならば。

 

もう「上がっちゃった」人たちの感覚を、言葉のみを介して理解するには限界がある。

 

例えば。

・片足を地面に着けてサドルに尻を乗せ、もう片方の足をペダルにかけ、左右のハンドルを両手で軽く握る。

・足をかけたほうのペダルの位置を、足の甲側で前に蹴り上げるようにして空回りさせて、高い位置に持ってくる。

・高い位置に持ってきたペダルを、今度は足の裏側で踏み込む。するとその力がペダル側のギアから後輪のギアにチェーンを介して伝わり、後輪が回って本体が前進を始める。それと同時に地面に着いていた方の足を地面から離す。

・先に踏み込んだ方のペダルは半回転して低い位置に来ているので、入れ替わりに高い位置に来た反対側のペダルに、地面から離した足を乗せて踏み込む。これを繰り返す。

・このようにして後輪に動力を送り続けることによって、安定的に走行することができる。スピードに乗り切れないうちは多少不安定になるが、怖がらずに左右のペダルを踏み込み続ける。また、ハンドルを握る手や肩に余分な力が入っているとスムーズに操作できないので、上半身は常にリラックスさせておく。

 

私自身ウン十年前に体得した自転車の乗り方を言語化、当世風に言う「トリセツ」化してみました。わかる人、乗れる人からしたら、一体何を当たり前のことを長々と、という話ですが、じゃあ。

 

自転車に乗れないあなたもこれさえ読めば今日から憧れのサイクリングに!

ってなるかと言われれば、答えはほとんどの場合、NOとなりましょう。

私としては懇切丁寧、「日本一わかりやすい」をモットーに書いたつもりですが、乗れない人からしたら「それ言っといてくれないとさあ」というところが多々あるはずだし、何より最後の方の「怖がらずに」とか「リラックス」とか、これが大問題なのです。つまり。

 

「怖がらずにリラックスしましょう、って言われてもできないので、どうやったら怖くなくなってリラックスできるのか教えてください」

「それは感覚の問題だから言葉では教えられません。ですから感覚を掴むまで練習しましょう」

「では、どうやったら感覚を掴めるのか教えてください」

「ですから、掴むまで練習を……」

 

この問答が一生続くわけです。まあ、自転車くらいなら実際に乗れる人は身近にたくさんいて、その人たち、多くの場合ご両親の指導で、多少擦り傷こさえながらも実践を繰り返して、最終的にはほとんどの人が乗れるようになります。

ただ、同じことが我々スピリチュアル一般人と「上がっちゃった」人たちとの間で起こっているのだとしたら……?

 

重ねて申し上げますが、「上がっちゃった」著者は手抜きも意地悪も一切せずに言葉を尽くしてくれているはず。それは無条件で信じましょう。でも、言葉を尽くしても伝わらないことも多々あり、得てしてそれらが「肝」であったりすることもまた事実。そしてそれこそが「スピリチュアル本」を何十冊読んでもスピリチュアリズムを体得できない原因ではないか。これが私自身の経験から導いた、私なりの結論です。

感謝をしましょう、自由になりましょう、嫌いな仕事は辞めましょう、お金の心配はやめましょう。

……って言われてできるなら苦労しないよ、と思ってきたわけですよ、僕なんかは。本読む度に。

 

しかし逆を言えば、スピリチュアリズムを体得したいと思いつつ、本しか読んでこなかったわけですよ、僕なんかは。先の例で言うなら「自転車の乗り方」の本を何十冊も読んだだけ。本当に自転車に乗りたいならまずは自転車を用意して、実際にまたがって、ハンドル握って、補助輪付き(懐かしい……)でも何でもいいから漕いでみて、乗れる人に教えてもらう。これくらいはしますよ普通。

本読んだだけで自転車なんか乗れるわけないじゃん、と言いながら、本読んだだけでスピリチュアリズムを体得できると、どこかで思っていた。なんて図々しい、っていう話ですよ、考えてみれば。

 

しかしさらに逆を言えば、然るべき場所で、然るべき人に指導を仰ぎながら、見よう見真似でも何でもやってみる。本など参考にしつつ、とにかく実践してみる。わからないことはわかる人に聞いてみる。できないことは何回もやってみる。そうすることで、スピリチュアルな感覚を体得することも、あるいは可能なのではなかろうか。

 

その検証をするにあたって、今の私は絶好の条件下にあると思うのです。

まず、私の師匠は元々はスピリチュアル一般人、大師匠(!?)から学んでヒーラーとしての能力を後天的に習得し、現在プロのヒーラーとして活躍されている方であること。次に私自身、生粋のスピリチュアル一般人であることは先述の通りですが、それに加えて前回お話ししたように、「3次元世界の限界」を身をもって感じやすい世代に生まれたこと。裏を返せば「3次元的な幸福」を享受しづらい世代ということにもなりますが、いずれにしろスピリチュアリズムに関心を持ちやすい環境にあったかとは自分でも思うところであります。また2021年1月現在で43歳フリーターという条件も、ある意味背中を押してくれます。もうね、やらなしゃーない。

 

いかがでしょうか。冒頭に挙げた、

「人類のために、我が身を供した『中長期的人体実験』を敢行し、その過程を公開するため」

というこのブログの目的、ご理解いただけましたでしょうか。

 

師匠は「スピリチュアルな感覚は、決して特別な人だけが持つ特別なものではない」と言います。「みんな持っているけど忘れているだけだから、思い出せばよい」と。

 

東京スカイツリーが建設中だった頃、この光景は完成したら二度と見られないからとその様子、建設の過程を毎日写真に収めることがちょっとしたブームになりました。

私もそれに倣って、スピリチュアリズム体得までの過程を晒していこうというわけです。完成してしまえば建設中の姿は見せられないし、自転車に乗れてしまえば乗れなかった時の感覚は思い出せない。そんな建設中の、あるいは擦り傷製造中の今の私だからこそ見えるもの、わかることをリアルタイムで発表していくことで、何かの役に立つかもしれないし、自分自身の発見にも繋がるかもしれない。途中で間違ってやり直しになるかもしれないし、そもそも完成しないかもしれないし、きれいに崩壊(!)するかもしれない。でも、もしうまいこと完成したら、師匠の言うことに、微力ながら説得力を加えることができるかもしれないし、読んでくださる方々に、こいつができるなら俺も、私も、と思ってもらえるかもしれない。

 

そんな「かもしれない」ばっかのふわふわブログになっていくこと請け合いですが、そんなもの「かもしれない」と思って今後もお付き合いいただければ幸いであります。よい子はまねしないでね。