3.5次元くらいが一番しんどい。

アセンション途上(?)おじさんのヒーラー修行ドキュメンタリー。

第8次元  スピVSテク――そこに愛は、あるんか?

少し前に、スマホを忘れて外出するということが二度ほど続きました。いずれも電車に乗った時に気付き、ああやっちまったなあとなったのですが、逆に言えばそんなもん。私にとってはああやっちまったなあで済む程度のことで、一日くらいなくたってなんてこたあない。一度目などは腕時計も電池切れで使えなくて持たずに出たので、時間を知れる場所が駅のホームくらいしかないというなかなかにスリリングな一日となったりしたのですが、それでもさほどに困ることはありませんでした。

 

スマホを使い始めて約10年。確かに便利だし、その恩恵はありがたく頂戴して生きてはいるけれど、スマホがない時代を30年も生きた身としては、なきゃないで死にゃあしない、とも思う。進んで手放そうとは思わないけど、最悪手放したところで、それが生命の危機に直結するわけでもありますまい。

 

スマホに限らず、現代人たる我々は様々なテクノロジーに囲まれて暮らしています。行き過ぎたテクノロジーがしばしば問題になることもありますが、私は「自分が使って心地よければOK」ということにしています。スピリチュアルな言い方をすれば「自分のハートに問う」ということ。そうして自分にとって心地よいものだけを選んでいけば、少なくとも「テクノロジーに使われる」事態は避けられるはずです。

 

私のスマホ事情を例として晒してみましょう。

私も人並みにスマホは使います。主に外出先で、ニュースをチェックしたり、地図を見たり、交通手段を調べたり、電子書籍を読んだり、とそれなりにお世話になっております。自宅ではパソコンを使うことが多いのでスマホはあんま使わないかな。

 

一方、スマホでゲームは一切しません。動画や音楽の視聴も、外ではまずしません。一時麻雀ゲームのアプリを入れてたことがありましたが、何せ画面が小さすぎて自分の手牌も相手の捨て牌もまあ見づらい。ようやく引いた上がり牌を惜しげもなく捨ててしまったことも数知れず……。

 

ええ、何でしたっけね。あ、別にゲームが悪いと言っているわけではありません。今でこそあまりやらなくなりましたが、元来ゲームは大好きだし、家では音楽や動画も楽しみます。ただ外ではちょっとねっていう話、ましてや歩きながらなんて論外。

昨今言われる歩きスマホの危険性などの要素も当然あるけど、それ以上に、全力でゲームに臨めないという環境が、私にとっては心地よくないのです。やんなら100パー。他の何かを気にしながらでもいいや、と思ってやるゲームは、本当にやりたいゲームではありません。初めてプレイしてから四半世紀経った今なお、思い出すだけで涙が出そうになるくらいの名作に出会えた私は断言します。

動画や音楽についても同様。音楽に関しては視覚がフリーだから歩きながらでも大丈夫、というのは確かにそうかもしれないけど、これもやはり危険性云々以前に、音楽とのそういう接し方が私にとって心地よくない、ということ。大好きな曲聴いてる時に、他のことなんか1%も考えたくない。

 

とまあこんな感じで、スマホというある種オールマイティなハイテク機器の、自分にとって心地よい機能だけを使うことで、「私がスマホを使う」という状態をキープできているというわけです。1日あたりの使用時間はせいぜい1時間。2時間に達することなど、まずあり得ません。

あれもこれもスマホで済ますとか毎日何時間も動画観てるとかが悪いわけではないんでしょうけど、機能的にも時間的にも依存度が高まれば、それだけスマホに「使われる」場面も多くなる、ということでありましょう。

 

師匠は「意図」という言葉をよく使います。

水を飲む、という行動一つ取っても、ただ何となく飲むのではなく、「自分は今水を飲みたいから飲むんだ」というように、明確な意思を持った上で飲む。自分が今本当に水を飲みたいかどうかがわからないなら、まずはハートに問うてみる。その結果、「何となくボトルに手が伸びたけど、別に水を飲みたいわけではなかった」ということもありましょう。大袈裟に言えば「危うく飲みたくもない水を飲まされるところだったけど、ハートに問うことで回避できた」ということで、それを踏まえた上でしっかりと意図して「水を飲まない」という選択ができるわけです。

 

「人生は選択の積み重ね」とはよく言われますが、だとすればいかに一つ一つの選択を自分の意図に基いて行えるか。真に自分の人生を築き、真の自分の姿を知るための、それが一つの鍵となることは間違いございますまい。無論、今の私に、何となく上がり牌を捨てちゃうような奴に、それが完璧にできているなどとは申しません。3.5次元の身では意図することを意図するのがやっと、というのが現状でありますが、それを意図するだけでも意識は変わります。

 

スマホに限らず、今後もテクノロジーは進化を続け、それに伴って便利さや高性能を謳うモノや仕組みが、商品やサービスという形で次々と我々に提示されることでありましょう。それ自体は決して悪いことではありません。

ただ、提示されるものに対して、我々は意図を持って選択せねばなりません。早い話「これ、ほんとにいる? ほしい?」という疑問を持つということ。自分にとって心地よいものであるかどうかを常に感じ取ることが、テクノロジーに使われずに生きるには必須のスキルとなりましょう。「ゲームがしたい!」という強い意志を持ってスマホに手を伸ばしたのか、そこにスマホがあるから手を伸ばしただけなのか。同じ「スマホでゲームをする」という行動でも、両者の間には雲泥の差があるのです。

 

ちょいと古い話になりますが、30年ほど前、確か私が中学生になる頃に「ゲームボーイ」という携帯用ゲーム機が発売されました。私は持っていませんでしたが、周りには持っている奴も少なからずいました。

でも、今思い返してみても、あの頃道を歩きながらゲームボーイやってた奴なんかいなかったよねえ。公園とかに持って出てくる奴もいたはいたけど、たいがいベンチとかに座ってやってましたよ。実際、当時「歩きゲームボーイが社会問題に」なんて話は聞きませんでした。

 

同じ「ゲームができる小型の電子機器」を手にした時、車や人が行き交う路上を歩きながらプレイするという選択を、今の人はして、30年前の人はしなかった。

スマホゲームボーイを単純比較することには少々無理もありましょう。ゲームしかできない機械なら毎日持って歩いたりはしない、と言う人もいるでしょう。が。

スマホを常に持ち歩くのは生活や仕事のため。でもついでにゲームもできるんなら電車の中でも歩きながらでも何となくやっちゃう」と言うなら、それ。

 

使われてます。スマホに。ゲームやらされてます。

「なぜゲームをするのか。それは、そこにスマホがあるから」

とか名言っぽく言っても駄目です。その選択には、意図が働いてません。残念。

そしてファミコン世代ど真ん中の私に言わせれば、ぬるい。甘い。誰が何と言おうと、ゲームはやりたいからやるもの。暇潰しや手慰みにやるものではありません。親にやめろと言われても、一旦やめたふりしてテレビだけ消して、その後またテレビをつけてすぐさま消音ボタンを押してやるもの。それくらいの強い意図、信念、そして知恵と勇気を持って、コントローラーというものは握るべきものなのです。

ええ、真似してはいけませんよ。残念。

 

話がゲームに片寄ってしまったので、最後に音楽と動画の話を一つ。

このご時世でコンサートなどのイベントも軒並み中止となってしまいましたが、そんな中私の大好きなバンドがオンラインでライブの生配信をしてくれました。もちろん演奏する側も我々聴く側も「会場で会いたい!」という希望は強くあり、これが100%の形でないことはわかっているのですが、今できる最高のパフォーマンスと、今できる最高の応援で繋がることができたのですから、感謝の気持ちは自ずと湧いてくるというもの。仮想の空間とはいえ、そこには確かに愛が溢れていました。

そしてゲームボーイの時代には到底考えられなかったテクノロジーがそれを実現してくれたことにも、やはり感謝せねばなりません。

 

愛と意図を持ってテクノロジーを使い、その恩恵を受け取る。

その意識があれば、テクノロジーに操られたり、スピリチュアリティを奪われることもありますまい。我々が愛と意図を持って臨めば、どんなに優れていても愛のないテクノロジーは消えていくことでありましょう。

 

ゲームも愛。音楽も、動画も愛。

このブログも……。

 

え?